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黑川启太
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【个人翻译】李陵 - 中島敦

全文字数:65793

李陵

中島敦 (中岛敦)

原文

【日】 漢かんの武帝ぶていの天漢てんかん二年秋九月、騎都尉きとい・李陵りりょうは歩卒五千を率い、辺塞遮虜へんさいしゃりょしょうを発して北へ向かった。阿爾泰アルタイ山脈の東南端が戈壁沙漠ゴビさばくに没せんとする辺の磽こうかくたる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風さくふうは戎衣じゅういを吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北ばくほく・浚稽山しゅんけいざんの麓ふもとに至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴きょうどの勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿うまごやしも枯れ、楡にれや柳かわやなぎの葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍きんぼうを除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧かわらと、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野こうやに水を求める羚羊かもしかぐらいのものである。突兀とっこつと秋空を劃くぎる遠山の上を高く雁かりの列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰だれ一人として甘い懐郷の情などに唆そそられるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極きわまるものだったのである。

【中】 汉武帝天汉二年秋九月,骑都尉李陵率步卒五千,发自边塞遮虏障,向北挺进。大军穿梭于阿尔泰山脉东南端即将隐没于戈壁沙漠一带的崎岖丘陵之中,北行了三十日。朔风吹透戎衣,寒意逼人,令人深感万里孤军深入之悲壮。至漠北浚稽山麓,大军方才安营扎寨。此时他们已深深踏入宿敌匈奴的势力范围。虽是秋季,但北地苦寒,苜蓿枯黄,榆柳的叶子也已落尽。别说树叶,便是树木本身(除宿营地附近外)也难得一见,眼前唯有黄沙、岩石、砾石与干涸河床交织成的荒凉风景。极目远眺,不见人烟,偶尔造访此地的,不过是旷野中寻水的羚羊。哪怕望见高高划过突兀秋空、在远山之上向南疾飞的雁阵,全军将士中也无一人被激起那般软弱的思乡之情。因为他们所处的位置,已是极度凶险。

【日】 騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨またがる者は、陵とその幕僚ばくりょう数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極きわみというほかはない。その歩兵も僅わずか五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山しゅんけいざんは、最も近い漢塞かんさいの居延きょえんからでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。

【中】 面对以骑兵为主力的匈奴,竟不带一队骑兵,仅凭步卒(骑马者仅李陵及其数名幕僚)便深入腹地,此举简直堪称无谋之极。这步卒也仅区区五千,绝对没有后援,况且这座浚稽山,距离最近的汉塞居延,足足有一千五百里(中国里)之遥。若非对统帅李陵抱有绝对的信赖与心悦诚服,这样的行军是断然无法坚持下去的。

【日】 毎年秋風が立ちはじめると決きまって漢の北辺には、胡馬こばに鞭むちうった剽悍ひょうかんな侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠かすめられ、家畜が奪略される。五原ごげん・朔方さくほう・雲中うんちゅう・上谷じょうこく・雁門がんもんなどが、その例年の被害地である。大将軍衛青えいせい・嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいの武略によって一時漠南ばくなんに王庭なしといわれた元狩げんしゅ以後元鼎げんていへかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病かくきょへいが死んでから十八年、衛青えいせいが歿ぼっしてから七年。野侯さくやこう趙破奴ちょうはどは全軍を率いて虜ろに降くだり、光禄勲こうろくくん徐自為じょじいの朔北さくほくに築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋つなぐに足る将帥しょうすいとしては、わずかに先年大宛だいえんを遠征して武名を挙あげた弐師じし将軍李広利りこうりがあるにすぎない。

【中】 每年秋风初起之时,汉朝的北疆必定会出现扬鞭催胡马的剽悍侵略者大军。边疆官吏被杀,百姓被掳,家畜被劫。五原、朔方、云中、上谷、雁门等地,便是常年受害之区。除了当年凭大将军卫青、骠骑将军霍去病的武略,使得“漠南无王庭”的元狩至元鼎年间那数年之外,这三十年来,北疆的边患从未断绝。如今霍去病已死十八年,卫青故去七年。浞野侯赵破奴曾率全军降敌,光禄勋徐自为在朔北筑起的城障也旋即被毁。如今能维系全军信赖的将帅,不过只剩下前些年远征大宛而声威大震的贰师将军李广利一人而已。

【日】 その年――天漢二年夏五月、――匈奴きょうどの侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉しゅせんを出た。しきりに西辺を窺うかがう匈奴の右賢王うけんおうを天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重しちょうのことに当たらせようとした。未央宮びおうきゅうの武台殿ぶだいでんに召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍ひしょうぐんと呼ばれた名将李広りこうの孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射きしゃの名手で、数年前から騎都尉きといとして西辺の酒泉しゅせん・張掖ちょうえきに在あって射しゃを教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重しちょうの役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚けいその一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出いで、側面から匈奴の軍を牽制けんせいしたいという陵の嘆願には、武帝も頷うなずくところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割さくべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重しちょうの役などに当てられるよりは、むしろ己おのれのために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒おかすほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手はで好きな武帝は大いに欣よろこんで、その願いを容いれた。李陵は西、張掖ちょうえきに戻って部下の兵を勒ろくするとすぐに北へ向けて進発した。当時居延きょえんに屯たむろしていた彊弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくが詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙まずいことになってきた。元来この路博徳ろはくとくという男は古くから霍去病かくきょへいの部下として軍に従い、離侯ふりこうにまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波ふくは将軍として十万の兵を率いて南越なんえつを滅ぼした老将である。その後、法に坐ざして侯を失い現在の地位に堕おとされて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯ほうこうをも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵こうじんを拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴きょうどの馬は肥え、寡兵かへいをもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒えいほうには些いささか当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉しゅせん・張掖ちょうえきの騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷ひどく怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気おじけづくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝なんじはこれと協力する必要はない。今匈奴が西河せいがに侵入したとあれば、汝なんじはさっそく陵を残して西河に馳はせつけ敵の道を遮さえぎれ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北ばくほくに至り東は浚稽山しゅんけいざんから南は竜勒水りょうろくすいの辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、野侯さくやこうの故道に従って受降城じゅこうじょうに至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈はげしい詰問きつもんのあったことは言うまでもない。寡兵かへいをもって敵地に徘徊はいかいすることの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引けんいん力と、冬へかけての胡地こちの気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王ようおうではなかったが、同じく庸王ではなかった隋ずいの煬帝ようだいや始皇帝しこうていなどと共通した長所と短所とを有もっていた。愛寵あいちょう比なき李り夫人の兄たる弐師じし将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛だいえんから引揚げようとして帝の逆鱗げきりんにふれ、玉門関ぎょくもんかんをとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘わがままでも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自みずから乞こうた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇ちゅうちょすべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。

【中】 那一年——天汉二年夏五月——在匈奴侵略之前,贰师将军率领三万骑兵从酒泉出征。意在天山击溃频频觊觎西陲的匈奴右贤王。武帝命李陵负责此军的辎重之事。在未央宫武台殿被召见的李陵,却极力请求免去这一差事。李陵乃被称为“飞将军”的名将李广之孙。他早有祖父遗风,是骑射好手,数年来作为骑都尉在西陲酒泉、张掖一带教射练兵。年将四十,正是血气方刚之时,押运辎重的差事对他而言实在太过憋屈。“臣在边境所养之兵,皆荆楚一骑当千之勇士,愿率此军出击,从侧翼牵制匈奴”,李陵的这一番请愿,令武帝也颇为动容。然而,由于接连向各方派兵,朝廷已无多余的骑兵可拨给李陵。李陵表示即便如此也无妨。此举虽看似强人所难,但比起干辎重这等差事,他宁愿选择与五千愿为自己效死命的部下同犯险境。“臣愿以少击众”,李陵的豪言壮语让喜好大场面的武帝大悦,准其所请。李陵西归张掖,整顿兵马后立即挥师北上。当时驻扎居延的强弩都尉路博德奉诏,出迎李陵军至半道。到此为止一切尚好,但接下来的事却弄巧成拙。这路博德本是霍去病麾下旧部,曾封符离侯,十二年前更以伏波将军之职率十万大军灭南越,乃是一员老将。后因犯法失侯,贬谪至此戍守西边。论年纪,他与李陵如父子。曾封侯的老将如今却要跟在年轻的李陵屁股后面,心中实在不快。他接到李陵军的同时,便派使者飞驰长安上奏:时值秋季,匈奴马肥,以寡兵实难撄其善骑之锐锋。故臣以为,不如让李陵留此过冬,待来春各率酒泉、张掖五千骑兵出击,方为上策。当然,李陵对此事一无所知。武帝见奏书勃然大怒。他以为这是李陵与博德商议后的结果。“在朕面前夸下海口,如今到了边地竟忽然怯阵,成何体统!”使者立刻带着诏书飞驰博德与李陵处。给博德的诏书说:李陵既夸口欲以少击众,汝无须与之合兵。今闻匈奴犯西河,汝速撇下李陵赴西河断敌归路。给李陵的诏书则命其立即赴漠北,东至浚稽山、南至龙勒水一带侦察观望,若无异常,则沿浞野侯旧道至受降城休整。诏书中自然少不了严厉的斥责:尔与博德串通上书,究竟意欲何为!暂且不提以寡兵徘徊敌境的凶险,单单是这数千里的行军路线,对一支没有骑兵的军队而言便艰难万分。仅凭步行的速度、人力拉车的缓慢,加上入冬胡地的苦寒,这绝境是任谁都清楚的。武帝绝非常人眼中的平庸之君,但他却有着与隋炀帝、秦始皇相似的长短处。即便是宠冠后宫的李夫人之兄贰师将军,也曾因兵力不足欲从大宛撤军而触怒逆鳞,被拒于玉门关外。而那场大宛之战,起初也不过是为了求得几匹良马罢了。皇帝一旦金口玉言,任何任性的要求都绝对必须执行。更何况,李陵的差事本是他自己求来的。虽说在季节与距离上是相当无理的命令,但也毫无踌躇的余地。于是,他踏上了这场“没有骑兵的北征”。

【日】 浚稽山しゅんけいざんの山間には十日余留とどまった。その間、日ごとに斥候せっこうを遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰あますところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下きかの陳歩楽ちんほらくという者が身に帯びて、単身都へ馳はせるのである。選ばれた使者は、李陵りりょうに一揖いちゆうしてから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨うちまたがると、一鞭ひとむちあてて丘を駈下かけおりた。灰色に乾いた漠々ばくばくたる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。

【中】 大军在浚稽山间驻扎了十余日。其间,不仅每日向远方派出斥候探听敌情,还必须将附近的山川地形毫无遗漏地绘成图本上报朝廷。报告书由麾下一名叫陈步乐的人随身携带,单骑飞驰长安。被选中的使者向李陵作了个揖,便跨上军中不足十匹的战马之一,一扬鞭冲下山丘。在灰蒙蒙、干巴巴的茫茫风景中,他的身影渐渐缩小,全军将士目送着他,心中皆涌起一种难以言喻的凄惶。

【日】 十日の間、浚稽山しゅんけいざんの東西三十里の中には一人の胡兵こへいをも見なかった。

【日】 彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師じし将軍はいったん右賢王うけんおうを破りながら、その帰途別の匈奴きょうどの大軍に囲まれて惨敗ざんぱいした。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂うわさは彼らの耳にも届いている。李広利りこうりを破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因※いんう[#「木+于」、U+6745、10-7]将軍公孫敖こうそんごうが西河せいが・朔方さくほうの辺で禦ふせいでいる(陵りょうと手を分かった路博徳ろはくとくはその応援に馳はせつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南かなん(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴きょうどの主力は現在、陵の軍の止営地から北方居水しっきょすいまでの間あたりに屯たむろしていなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺ながめるのだが、東方から南へかけてはただ漠々ばくばくたる一面の平沙へいさ、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹たかか隼はやぶさかと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵こへいをも見ないのである。

【中】 十日间,浚稽山东西三十里内未见一名胡兵。

【中】 赶在他们之前、夏日便向天山出击的贰师将军,虽一度击破右贤王,却在归途中被另一支匈奴大军包围而惨败。汉兵战死十之六七,连将军自己都险些丧命。这传闻早已传入他们耳中。击败李广利的那支敌军主力,此刻究竟在何处?如今杅将军公孙敖在西河、朔方一带防御(与李陵分道扬镳的路博德便是去支援他了)的敌军,从距离和时间上推算,似乎并非敌军主力。因为他们不可能这么快从天山狂奔四千里赶到东方的河南(鄂尔多斯)之地。算下来,匈奴的主力此刻必定驻扎在李陵驻地至北方居延水之间的某个地方。李陵自己每日也立于前山之巅四下眺望,但见东方至南方唯有无垠平沙,西方至北方则是草木稀疏的连绵丘陵。除了偶尔在秋云间瞥见疑为鹰隼的飞鸟之影,大地上实在连一骑胡兵也寻不见。

【日】 山峡の疎林の外はずれに兵車を並べて囲い、その中に帷幕いばくを連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚たいては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星ろうせいが、青白い光芒こうぼうを斜めに曳ひいて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退たちのいて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨ほしょうが見るともなくこの爛々らんらんたる狼星ろうせいを見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨おおきな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨ほしょうが声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯ひはフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。

【中】 在山峡疏林之外,用兵车并排围成一圈,帐幕便连缀其中。入夜后,气温骤降。士卒们折下少得可怜的树枝生火取暖。驻扎了十日,月亮隐去了。或许是因为空气干燥,星星显得分外璀璨。紧贴着黑漆漆的山影,夜夜可见天狼星斜曳着苍白的光芒在闪烁。十数日平安无事地度过,就在决定明日拔营、沿指定路线向东南进发的那天夜里。一名步哨百无聊赖地仰望着那颗熠熠生辉的天狼星,突然,在那颗星的正下方,出现了一颗硕大的赤黄色星辰。“咦?”还没等他反应过来,那颗见所未见的巨星拖着粗红的尾巴移动了。紧接着,两颗、三颗、四颗、五颗相似的光点在其周围显现,并开始移动。步哨刚要失声惊呼,远处那些灯火却在一瞬间熄灭了。仿佛刚才看到的只是一场幻梦。

【日】 歩哨ほしょうの報告に接した李陵りりょうは、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷らいのごとき鼾声かんせいを立てて熟睡した。

【中】 接到步哨报告的李陵,命全军做好准备,明晨天亮即刻进入战斗状态。他走出营帐巡视了一番各处部署,便返回帐中,发出如雷的鼾声熟睡过去。

【日】 翌朝李陵が目を醒さまして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟ほこと盾たてとを持った者が前列に、弓弩きゅうどを手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾はさんだ二つの山はまだ暁暗ぎょうあんの中に森閑しんかんとはしているが、そこここの巌蔭いわかげに何かのひそんでいるらしい気配けはいがなんとなく感じられる。

【中】 翌晨,李陵醒来走出营帐,只见全军已按昨夜之命列好阵型,静候敌军。所有士兵皆退至兵车外侧,持戟持盾者居前,手执弓弩者居后。夹着这座山谷的两侧山头,仍在黎明前的黑暗中静谧无声,但隐约能感到岩缝间似乎潜伏着某种气息。

【日】 朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴きょうどは、単于ぜんうがまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧わいた。天地を撼ゆるがす喊声かんせいとともに胡兵こへいは山下に殺到した。胡兵の先登せんとうが二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声こせいが響く。たちまち千弩せんどともに発し、弦に応じて数百の胡兵こへいはいっせいに倒れた。間髪かんはつを入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者じげきしゃらが襲いかかる。匈奴きょうどの軍は完全に潰ついえて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首りょしゅを挙げること数千。

【中】 当朝阳的影子射入谷底的瞬间(匈奴大概是不到单于拜过朝阳绝不发兵的),原本空无一物的两山之巅与斜坡上,无数人影如泉涌出。伴随着震天动地的喊杀声,胡兵向山下杀来。当胡兵先头部队逼近至二十步远时,一直沉寂的汉军阵营中方才擂起战鼓。刹那间千弩齐发,应弦声倒下数百胡兵。间不容发之际,汉军前列的持戟甲士向阵脚大乱的残敌猛扑过去。匈奴军队全线崩溃,狼狈逃往山上。汉军乘胜追击,斩首数千。

【日】 鮮あざやかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡なびいていた旗印から見れば、紛れもなく単于ぜんうの親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰ごづめの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城じゅこうじょうへという前日までの予定を変えて、半月前に辿たどって来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞きょえんさい(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。

【中】 虽胜得漂亮,但生性执拗的敌军绝不会就此罢休。单今日之敌便足有三万。且看山上飘扬的旗帜,确系单于亲卫军无疑。既然单于在此,便必须做好敌方将出动八万十万后援大军的觉悟。李陵立刻决定撤离此地,向南转移。他改变了此前向东南两千里赴受降城的计划,转而沿半月前走过的原路向南,企图尽早退回出发地居延塞(尽管那也有千数百里之遥)。

【日】 南行三日めの午ひる、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵こうじんの揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙すきもなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲こりたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停とめて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦はくせんを避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖ふえていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野こうやの狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句あげく、いつかは最後の止とどめを刺そうとその機会を窺うかがっているのである。

【中】 南行第三日午后,汉军后方遥远的北方地平线上,卷起了如云的黄尘。那是匈奴骑兵的追击。到了次日,八万胡兵已利用骑马的神速,将汉军前后左右围得水泄不通。不过,似乎是吸取了前一日的教训,他们并不逼近至极近距离。只是远远地包围着向南行进的汉军,在马上放冷箭。一旦李陵停军列阵,敌军便策马远遁,避免白刃战;一旦汉军恢复行军,他们又逼近射箭。这不仅使行军速度大减,死伤者也在一天天地增加。犹如尾随饥疲旅人的旷野恶狼,匈奴兵固执地重复着这种战法,紧追不舍。他们意图在一点点消耗汉军之后,寻找给出致命一击的机会。

【日】 かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵りりょうは全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執とって闘わしめ、両創を蒙こうむる者にもなお兵車を助け推おさしめ、三創にしてはじめて輦れんに乗せて扶たすけ運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体したいはすべて曠野こうやに遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車しちょうしゃ中に男の服を纏まとうた女を発見した。全軍の車輛しゃりょうについて一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮りくに遇あったとき、その妻子等が逐おわれて西辺に遷うつり住んだ。それら寡婦かふのうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客とくいとする娼婦しょうふとなり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北ばくほくまで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬きるべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間たにまの凹地おうちに引出された女どもの疳高かんだかい号泣ごうきゅうがしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑のまれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然しゅくぜんたる思いで聞いた。

【中】 边战边退又南行了数日,汉军在一处山谷中休整了一日。伤兵数量已相当惊人。李陵点呼全员,查验伤情后下令:身负一创者如常执兵器作战;身负两创者协助推兵车;身负三创者方可乘辇车由人抬运。由于运力匮乏,所有尸体皆只能遗弃于旷野。这天夜里,李陵在巡视阵营时,偶然在一辆辎重车中发现了一名身着男装的女子。搜查全军车辆后,竟找出十数名同样潜伏于此的女子。昔年关东群盗一时尽数伏诛时,其妻女被流放徙居西边。这些寡妇中,不少人因衣食无着,成了边境守兵的妻子,或是专做守军生意的娼妇。藏在兵车中大老远跟到漠北的,正是这群人。李陵冷酷地命军吏将这些女人斩首,却对带她们同来的士卒只字未提。女人们被拖至山涧洼地,尖厉的号哭声持续了片刻后,突然像被黑夜的静谧吞噬一般戛然而止。军帐中的将士们听着这一切,心中不禁悚然。

【日】 翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体したい三千余。連日の執拗しつようなゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄にわかに奮ふるい立った形である。次の日からまた、もとの竜城りゅうじょうの道に循したがって、南方への退行が始まる。匈奴きょうどはまたしても、元の遠巻き戦術に還かえった。五日め、漢軍は、平沙へいさの中にときに見出みいだされる沼沢地しょうたくちの一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘でいねいも脛はぎを没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原かれあしはらが続く。風上かざかみに廻まわった匈奴の一隊が火を放った。朔風さくふうは焔ほのおを煽あおり、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦あしに迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地そじょちの車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘でいねいの中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿たどりついたとたんに、先廻さきまわりして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭あった。人馬入乱れての搏兵はくへい戦である。騎馬隊の烈はげしい突撃を避けるため、李陵は車を棄すてて、山麓さんろくの疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于ぜんうとその親衛隊とに向かって、一時に連弩れんどを発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍せいほうをまとった胡主こしゅはたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬すくい上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗しつような敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体したいはまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。

【中】 次日清晨,面对久违地逼近猛攻的敌军,汉军全军痛快淋漓地大战了一场。敌军丢下三千余具尸体。连日来受游击战术折磨而憋屈已久的士气顿时振奋起来。隔日,他们又沿着原路向南撤退。匈奴也再次恢复了此前的远距离包围战术。第五日,汉军踏入了平沙中偶尔可见的一处沼泽地。积水半冻,泥泞没胫,走不到尽头的是漫无边际的枯苇荡。绕到上风口的匈奴军队放了火。朔风煽风点火,在正午天空下泛白失色的火光,以惊人的速度逼向汉军。李陵立刻命人点燃附近的芦苇以迎火阻燃,总算躲过一劫。火虽防住,但这沼泽地中行车的艰难却无法用语言形容。在没有休息地的情况下,他们在泥泞中跋涉了一夜。翌晨,刚走到丘陵地带,便遭遇了提前埋伏在此的敌军主力的袭击。人马陷入了混战。为避开骑兵队的猛烈突击,李陵弃车,将战场转移至山麓的疏林中。林间发出的猛烈射击大显神威。当箭雨泼向偶然现身阵前的单于及其亲卫队时,单于的白马前蹄高昂人立而起,身披青袍的胡主瞬间被掀翻在地。两名亲卫甚至未下马,左右一夹便将单于抄起,全队立刻将他护在核心迅速撤退。混战数刻,总算击退了难缠的敌人,但这确是前所未有的苦战。敌军虽又抛下数千具尸体,汉军却也付出了近千人阵亡的代价。

【日】 この日捕えた胡虜こりょの口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于ぜんうは漢兵の手強てごわさに驚嘆し、己おのれに二十倍する大軍をも怯おそれず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃たのんでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩もらして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢かぜいを滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還かえそうということに決まったという。これを聞いて、校尉こうい韓延年かんえんねん以下漢軍の幕僚ばくりょうたちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微かすかに湧わいた。

【中】 从这天抓获的俘虏口中,得知了敌军内部的一端。据称,单于对汉兵之顽强惊叹不已,见汉兵面对二十倍于己的大军仍毫不畏惧,日日南下,仿佛在诱敌深入,不禁怀疑附近是否有汉军伏兵。前夜单于将此疑虑向诸将和盘托出以作计议,最终主战派占了上风:怀疑固然合理,但若单于亲率数万铁骑竟灭不了一支汉军孤旅,实在有损颜面。于是决定:此去向南四五十里皆是山谷,其间拼死猛攻,若出了平地再战仍不能克,那时再退兵不迟。听闻此言,校尉韩延年等汉军幕僚心中,不禁隐隐燃起了一丝“或许能得救”的希望。

【日】 翌日からの胡軍こぐんの攻撃は猛烈を極めた。捕虜ほりょの言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳てきびしい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経たつと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴きょうどらは遮二無二しゃにむに漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体したいを遺のこして退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚ばくりょう一同些いささかホッとしたことは争えなかった。

【中】 次日起,胡军的攻击狂暴到了极点。大概是开始了俘虏所说的“最后猛攻”。一天之内连攻十数次。汉军一边进行严厉的反击,一边缓慢向南移动。三日后出了平地。到了平地战,匈奴倚仗成倍增加威力的骑兵队,不顾一切地想要压倒汉军,结果又是扔下两千具尸体败退。若俘虏所言非虚,胡军至此便该放弃追击了。虽说区区一卒之言不可全信,但幕僚们心中还是暗自松了一口气。

【日】 その晩、漢の軍侯ぐんこう、管敢かんかんという者が陣を脱して匈奴の軍に亡にげ降くだった。かつて長安ちょうあん都下の悪少年だった男だが、前夜斥候せっこう上の手抜かりについて校尉こうい・成安侯せいあんこう韓延年かんえんねんのために衆人の前で面罵めんばされ、笞むち打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間たにまで斬ざんに遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣こじんに亡にげて単于ぜんうの前に引出されるや、伏兵を懼おそれて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋なんじゅうを極めている。漢軍の中心をなすものは、李り将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟しをもって印としているゆえ、明日胡騎こきの精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅かいめつするであろう、云々うんぬん。単于ぜんうは大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。

【中】 不料当晚,汉军一名叫管敢的军侯脱逃降敌。此人原是长安街头的无赖子弟,前夜因斥候差事上的疏漏,被校尉成安侯韩延年当众痛骂并施以鞭笞。他怀恨在心,遂作此举。也有人说,前些日子在山涧被杀的女子中,有一人便是他的妻子。管敢知晓匈奴俘虏的供词,故逃入胡营被带到单于面前时,极力陈言不必因惧怕伏兵而退却。他说:汉军并无后援,箭矢也将耗尽。伤兵满营,行军已是强弩之末。汉军的核心是李将军与成安侯韩延年各自率领的八百人,分别以黄、白旗帜为号,若明日胡骑精锐集中攻击这两处,将其击破,其余汉兵将不战自溃云云。单于大喜,厚待管敢,立刻取消了向北撤军的命令。

【日】 翌日、李陵りりょう韓延年かんえんねん速すみやかに降くだれと疾呼しっこしつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟しを目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遙はるかに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注そそいだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜しゃりょしょうを出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟とうそうぼうげきの類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟ほこを失ったものは車輻しゃふくを斬きってこれを持ち、軍吏ぐんりは尺刀せきとうを手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭せまくなる。胡卒こそつは諸所の崖がけの上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍ししと石るいせきとでもはや前進も不可能になった。

【中】 次日,胡军精锐高呼“李陵韩延年速降!”,朝着黄、白旗帜猛扑过来。在敌军气焰下,汉军逐渐被从平地逼入西方的山地。最终被逼入了一条远离大道深邃幽暗的山谷。敌军从四面山上降下暴雨般的箭矢。汉军欲要还击,却发现箭已用尽。当初出遮虏障时每人携带一百支、总计五十万支羽箭,已悉数射空。不仅是箭,全军的刀枪剑戟也断裂大半。真可谓字面意义上的“刀折矢尽”。即便如此,失了长戟的兵士砍下车辐为兵,军吏手握短刀死战。山谷越往里走越发逼仄。胡兵开始从各处悬崖上推下巨石。这比弓箭更直接地造成了汉军的大量死伤。尸首与乱石堆积,大军已是寸步难行。

【日】 その夜、李陵は小袖短衣しょうしゅうたんいの便衣べんいを着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡かいから覗のぞいて谷間に堆うずたかい屍しかばねを照らした。浚稽山しゅんけいざんの陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡かたおかの斜面は水に濡ぬれたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺うかがってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺うかがった。遠く山上の敵塁から胡笳こかの声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷とばりをかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀きょしょうに腰を下おろした。全軍斬死ざんしのほか、途みちはないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏ぐんりの一人が口を切り、先年野侯さくやこう趙破奴ちょうはどが胡軍こぐんのために生擒いけどられ、数年後に漢に亡にげ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵かへいをもって、かくまで匈奴きょうどを震駭しんがいさせた李陵りりょうであってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途みちを知りたもうであろうというのである。李陵はそれを遮さえぎって言う。陵一個のことはしばらく措おけ、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様ありさまでは、明日の天明には全軍が坐ざして縛ばくを受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞へんさいに辿たどりついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は汗山ていかんざん北方の山地に違いなく、居延きょえんまではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途みちはないではないか。諸将僚もこれに頷うなずいた。全軍の将卒に各二升の糒ほしいいと一個の冰片ひょうへんとが頒わかたれ、遮二無二しゃにむに、遮虜しゃりょしょうに向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗せいきを倒しこれを斬きって地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧おそれのあるものも皆打毀うちこわした。夜半、鼓こして兵を起こした。軍鼓ぐんこの音も惨さんとして響かぬ。李陵は韓校尉かんこういとともに馬に跨またがり壮士十余人を従えて先登せんとうに立った。この日追い込まれた峡谷きょうこくの東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。

【中】 那夜,李陵换上小袖短衣的便服,严令任何人不许跟随,独自走出了帐幕。明月从山峡间探出,照亮了谷底堆积如山的尸首。从浚稽山撤军时夜色还是一片漆黑,如今月亮又渐渐明朗起来。月光交织着满地寒霜,山坡仿佛被水浸湿一般。留在帐内的将士们,从李陵的装束便猜出,他必是打算只身潜入敌营,伺机与单于同归于尽。李陵迟迟未归。众将屏息倾听着帐外的动静。远方山上的敌垒中传来了胡笳的哀音。过了许久,李陵无声地掀起帐帘走了进来。“不行。”他像是吐出一口气般只说了这一句,便在踞床上坐下。“除了全军战死,似乎别无他途了。”过了一会儿,他又像是在对空气说话。满座死寂。少顷,一名军吏开口道,昔年浞野侯赵破奴被胡军生擒,数年后逃回汉朝,武帝亦未降罪。以此推之,以寡兵将匈奴震骇至此的李陵,哪怕是逃回长安,天子也必会体恤。李陵打断他说:“陵个人之事暂且不论。眼下若还有数十支箭,尚有一丝突围之望,可如今一矢不剩,明日天明全军便只能束手就擒。惟有今夜突围出谷,大家作鸟兽散,或许有人能侥幸逃回边塞,向天子报告军情。据我推算,此地应是鞮汗山以北,距居延尚有数日路程。生死虽未卜,但如今也别无他法了。”诸将僚亦点头称是。于是发给全军将士每人二升干粮、一块冰片,命众人各自不顾一切地向遮虏障方向逃命。同时,放倒汉军所有旌旗,斩断后埋入地下,又将武器兵车等恐资敌用之物悉数毁坏。夜半时分,击鼓兴兵。然而军鼓声却低沉凄绝。李陵与校尉韩延年跃马上马,率十余名壮士一马当先。他们打算冲破这天被迫躲入的峡谷东口,逃向平地,再向南狂奔。

【日】 早い月はすでに落ちた。胡虜こりょの不意を衝ついて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭あった。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬こばに鞭むちうって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙へいさの上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵りりょうはまた峡谷の入口の修羅場しゅらばにとって返した。身には数創を帯び、自みずからの血と返り血とで、戎衣じゅういは重く濡ぬれていた。彼と並んでいた韓延年かんえんねんはすでに討たれて戦死していた。麾下きかを失い全軍を失って、もはや天子に見まみゆべき面目はない。彼は戟ほこを取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入かけいった。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢ながれやに当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈ほこを引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰くらって失神した。馬から顛落てんらくした彼の上に、生擒いけどろうと構えた胡兵こへいどもが十重二十重とえはたえとおり重なって、とびかかった。

【中】 早出的月亮已经落下。趁着胡虏不备,全军总算有三分之二按计划突破了峡谷的后口。但随即遭到了敌军骑兵的追击。步卒大半被斩杀或俘虏,而趁着混战夺得敌马的数十人,则扬鞭催动胡马向南方逃去。李陵在夜色中模糊泛白的平沙上,甩开了敌人的追击,点算着逃脱的部下人数,确认确有百余人后,他又拨转马头,杀回了峡谷入口的修罗场。他身负数创,自己的鲜血与溅上的敌血,将戎衣重重浸湿。与他并肩作战的韩延年已经战死。失去了部下,全军覆没,他已无颜再见天子。他重新握紧长戟,再次冲入了乱军之中。在昏暗得难分敌我的混战中,李陵的战马似乎中了流矢,猛地向前栽倒。就在同时,正欲挥戈刺向前方敌人的李陵,后脑勺突然遭到背后沉重的一击,顿时失去了知觉。从马上坠落的他,被企图生擒他的胡兵们里三层外三层地压在了身下。

【日】 九月に北へ立った五千の漢軍かんぐんは、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞へんさいに辿たどりついた。敗報はただちに駅伝えきでんをもって長安ちょうあんの都に達した。

【中】 九月北上的五千汉军,进入十一月时,已变成了疲惫负伤、失去主将、不足四百人的残兵败将,挣扎着回到了边塞。败报立刻通过驿传飞报长安。

【日】 武帝ぶていは思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利りこうりの大軍さえ惨敗ざんぱいしているのに、一支隊たる李陵の寡軍かぐんにたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北ばくほくから「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛おうせい」の報をもたらした陳歩楽ちんほらくだけは(彼は吉報の使者として嘉よみせられ郎ろうとなってそのまま都に留とどまっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。

【中】 武帝出乎意料地没有发怒。毕竟连作为本军的李广利大军都已惨败,对李陵这一支队的一点寡兵,自然也无法抱有多大期望。况且,他深信李陵必定已经战死沙场。只是,前些日子作为李陵的使者从漠北带回“战线无异常,士气极旺盛”捷报的陈步乐(他作为报捷使者受赏为郎官,留在了都城),在情势之下不得不自杀了。虽然可怜,但这却是无可奈何之事。

【日】 翌、天漢てんかん三年の春になって、李陵りりょうは戦死したのではない。捕えられて虜ろに降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒かくどした。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈はげしさは壮時に超えている。神仙しんせんの説を好み方士巫覡ほうしふげきの類を信じた彼は、それまでに己おのれの絶対に尊信する方士どもに幾度か欺あざむかれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗しつようにつきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達かったつだった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑さいぎを植えつけていった。李蔡りさい・青霍せいかく・趙周ちょうしゅうと、丞相じょうしょうたる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀こうそんがのごとき、命を拝したときに己おのが運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢こうこつかん汲黯きゅうあんが退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣ねいしんにあらずんば酷吏こくりであった。

【中】 到了第二年,即天汉三年春,确切的情报传来:李陵并未战死,而是被俘降敌了。武帝这才勃然大怒。即位四十余年,皇帝虽已年近六十,但脾气之暴烈更胜壮年。他好神仙之说,迷信方士巫觋之流,此前曾多次被他绝对尊信的方士所欺骗。这位在汉朝鼎盛期君临天下五十余年的大皇帝,自中年以后,便一直被对灵魂世界的不安与关切执拗地纠缠着。正因如此,那方面的失望对他而言是巨大的打击。这些打击,随着年龄的增长,在他生来阔达的心中植入了对群臣阴暗的猜忌。李蔡、庄青翟、赵周,历任丞相相继被处死罪。就连现任丞相公孙贺,在拜相之时,竟因畏惧自己的命运而在皇帝面前放声大哭。硬骨头汲黯退隐之后,环绕在皇帝周围的,若非佞臣,便是酷吏。

【日】 さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属けんぞく家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉ていいが常に帝の顔色を窺うかがい合法的に法を枉まげて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを詰なじったところ、これに答えていう。前主の是ぜとするところこれが律りつとなり、後主の是とするところこれが令りょうとなる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相じょうしょう公孫賀こうそんが、御史大夫ぎょしたいふ杜周としゅう、太常たいじょう、趙弟ちょうてい以下、誰一人として、帝の震怒しんどを犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵ののしる。陵のごとき変節漢へんせつかんと肩を比べて朝ちょうに仕えていたことを思うといまさらながら愧はずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟いとこに当たる李敢りかんが太子の寵ちょうを頼んで驕恣きょうしであることまでが、陵への誹謗ひぼうの種子になった。口を緘かんして意見を洩もらさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有もつものだったが、それも数えるほどしかいない。

【中】 于是,武帝召集诸位重臣商议对李陵的处置。李陵本人虽不在京城,但定罪的结果将决定其妻子眷属及家财的下场。有一位以酷吏闻名的廷尉,惯于揣摩帝意,极擅长“合法”地枉法以迎合皇帝。曾有人用法律的权威来诘问他,他答道:“前代君主认为是的就是‘律’,后代君主认为是的就是‘令’。除了当时君主的意志,哪还有什么法?”群臣皆是此等廷尉之流。丞相公孙贺、御史大夫杜周、太常赵弟以下,无一人敢触犯皇帝的震怒而为李陵辩护。他们极尽口舌之能事,唾骂李陵的卖国行径。甚至说出“想到曾与李陵这等变节汉同朝为臣,事到如今都深感羞愧”的话来。众人异口同声地认为,李陵平日里的一举一动都显得可疑。连李陵的堂兄弟李敢仗着太子恩宠而骄横跋扈之事,也成了诽谤李陵的种子。那些噤口不言、不泄露半句意见的人,反倒成了对李陵抱有最大善意的人,但这也只是屈指可数。

【日】 ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣ざんぶしているのは、数か月前李陵が都を辞するときに盃さかずきをあげて、その行を壮さかんにした連中ではなかったか。漠北ばくほくからの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広りこうの孫と李陵の孤軍奮闘を讃たたえたのもまた同じ連中ではないのか。恬てんとして既往を忘れたふりのできる顕官けんかん連や、彼らの諂諛てんゆを見破るほどに聡明そうめいではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌きらう君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。下大夫かたいふの一人として朝ちょうにつらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒ほめ上げた。言う。陵の平生を見るに、親に事つかえて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠まことに国士のふうありというべく、今不幸にして事一度たび破れたが、身を全うし妻子を保やすんずることをのみただ念願とする君側の佞人ねいじんばらが、この陵の一失いっしつを取上げてこれを誇大歪曲わいきょくしもって上しょうの聡明を蔽おおおうとしているのは、遺憾いかんこの上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴きょうど数万の師を奔命ほんめいに疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮きわまるに至るもなお全軍空弩くうどを張り、白刃はくじんを冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古いにしえの名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜ろに降くだったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……

【中】 唯有一人,铁青着脸注视着这一切。如今极力谗诬李陵的,不正是数月前李陵辞别京城时,举杯为其壮行的那帮人吗?漠北使者带来李陵军健在的消息时,称赞他不愧为名将李广之孙、夸耀其孤军奋战的,不也是同一帮人吗?这些恬不知耻、装作已忘记往事的达官显贵,以及明明聪明得足以看穿他们谄媚,却依然厌恶倾听真话的君主,让这个男人感到不可思议。不,并非不可思议。他早从古史中就看厌了人性的这副模样,但那种反胃的不快感却丝毫未减。作为下大夫的一员位列朝堂,他也遭到了皇帝的下问。那时,这个男人毫不含糊地赞扬了李陵。他说:“观陵之平生,事亲至孝,交友守信,常奋不顾身以殉国家之急,诚可谓有国士之风。今虽不幸兵败,但那些君侧只知保全性命与妻子的佞臣,竟揪住李陵之一失,夸大歪曲,借此蒙蔽圣上之聪敏,实乃遗憾之至。况且陵此次出军,率不足五千步卒深入敌境,令匈奴数万大军疲于奔命,转战千里,哪怕到了矢尽道穷的地步,全军依然拉空弩、冒白刃死战。能深得部下之心,使其效死力至此,即使是古代的名将也不过如此。虽说兵败,但其善战之迹足可昭示天下。臣以为,他之所以不死而降虏,莫非是想暗中潜伏彼地,以期寻机报效大汉……”

【日】 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫ふるわせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。

【中】 满朝群臣都惊呆了。他们万万没想到世上竟有敢说出这种话的人。他们战战兢兢地仰望武帝那太阳穴都在颤抖的脸。随后,一想到等待着这个竟敢称他们为“全躯保妻子之臣”的男人将是怎样的下场,便不禁露出了窃笑。

【日】 向こう見ずなその男――太史令たいしれい・司馬遷しばせんが君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣」の一人が、遷せんと李陵りりょうとの親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故ゆえあって弐師じし将軍と隙げきあり、遷が陵を褒ほめるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞しゅっさいして功のなかった弐師将軍を陥おとしいれんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀せいれきぼくしを司つかさどるにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜ふそんな態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉ていいに下された。刑は宮きゅうと決まった。

【中】 那个鲁莽的男人——太史令司马迁退朝之后,立刻便有一位“全躯保妻子之臣”,将司马迁与李陵的亲密关系吹入了武帝耳中。也有人说,太史令因故与贰师将军有隙,他之所以赞扬李陵,是为了借此陷害此次先于李陵出塞却毫无建树的贰师将军。总之,大家一致认为,区区一个掌管星历卜祀的太史令,其态度实在太过不逊。可笑的是,司马迁竟比李陵的家属更早被治罪。次日,他便被下狱交由廷尉处置。刑罚定为宫刑。

【日】 支那しなで昔から行なわれた肉刑にくけいの主おもなるものとして、黥けい、ぎ(はなきる)、ひ(あしきる)、宮きゅう、の四つがある。武帝の祖父・文帝ぶんていのとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑きゅうけいのみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ふけいともいうのは、その創きずが腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木ふぼくの実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人えんじんと称し、宮廷の宦官かんがんの大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷しばせんがこの刑に遭あったのである。しかし、後代の我々が史記しきの作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令たいしれい司馬遷は眇びょうたる一文筆の吏りにすぎない。頭脳の明晰めいせきなことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人ひとに負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人へんくつじんとしてしか知られていなかった。彼が腐刑ふけいに遇あったからとて別に驚く者はない。

【中】 中国自古以来施行的肉刑,主要有墨(刺字)、劓(割鼻)、刖(断足)、宫四种。在武帝的祖父文帝时期,这四种刑罚废除了三种,唯独宫刑被保留了下来。所谓宫刑,自然是使男人不成其为男人的奇怪刑罚。它又被称为“腐刑”,一说是因为其创口散发腐臭,另一说是因为受刑者沦为如腐木不结果般的男人。受此刑者被称为阉人,宫廷中的宦官大部分皆是此类,自不待言。偏偏是司马迁遭此奇辱。不过,后代我们所熟知的《史记》作者司马迁固然是个伟大的名字,但在当时,太史令司马迁不过是个微不足道的文吏。即便头脑明晰是事实,但他对自己头脑过于自信,不善交际,在辩论中从不肯服输,顶多只是个被看作是冥顽不灵的怪人罢了。他遭受腐刑,别人并不觉得有多么惊讶。

【日】 司馬氏は元もと周しゅうの史官であった。後、晋しんに入り、秦しんに仕え、漢かんの代となってから四代目の司馬談しばたんが武帝に仕えて建元けんげん年間に太史令たいしれいをつとめた。この談が遷の父である。専門たる律りつ・暦れき・易えきのほかに道家どうかの教えに精くわしくまた博ひろく儒じゅ、墨ぼく、法ほう、名めい、諸家しょかの説にも通じていたが、それらをすべて一家の見けんをもって綜すべて自己のものとしていた。己おのれの頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子むすこの遷に受嗣うけつがれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内かいだいの大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。

【中】 司马氏原本是周朝的史官。后入晋、仕秦,到了汉代,第四代的司马谈侍奉武帝,在建元年间担任太史令。这位司马谈便是司马迁的父亲。除了精通本职的律、历、易之外,他还深谙道家之学,并广涉儒、墨、法、名诸家学说,将其融会贯通,化作自己的一家之言。他对自己的头脑与精神力量有着极强的自信,这一点完完全全遗传给了儿子司马迁。他在完成诸学传授之后,对儿子施行的最大教育,便是让其进行一场游历海内的大旅行。在当时这算是颇为新奇的教育方式,但这为日后的历史学家司马迁提供了极其巨大的助力,自不待言。

【日】 元封げんぽう元年に武帝が東、泰山たいざんに登って天を祭ったとき、たまたま周南しゅうなんで病床にあった熱血漢ねっけつかん司馬談しばたんは、天子始めて漢家の封ほうを建つるめでたきときに、己おのれ一人従ってゆくことのできぬのを慨なげき、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史つうしの編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集しゅうしゅうのみで終わってしまったのである。その臨終りんじゅうの光景は息子・遷せんの筆によって詳しく史記しきの最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起たちがたきを知るや遷を呼びその手を執とって、懇ねんごろに修史しゅうしの必要を説き、己おのれ太史たいしとなりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟じせきを空むなしく地下に埋もれしめる不甲斐ふがいなさを慨なげいて泣いた。「予よ死せば汝なんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾なんじそれ念おもえやと繰返したとき、遷は俯首流涕ふしゅりゅうていしてその命に背そむかざるべきを誓ったのである。

【中】 元封元年,武帝东巡泰山封禅祭天时,恰好在周南卧病在床的热血汉子司马谈,想到天子初建汉家封禅的这等盛事,自己竟无法随行,不禁悲愤交加,竟因此而死。编撰一部贯通古今的通史,本是他一生的宿愿,最终却仅仅停留在收集史料的阶段。那临终的光景,在儿子司马迁的笔下,详尽地描绘于《史记》的最终章。据载,司马谈自知不起,便唤来司马迁,执其手,恳切地陈述修史之必要,哭泣感慨自己身为太史却未能着手此事,令贤君忠臣的事迹白白埋没地下,实在是无能。“我死之后,你必将继任太史。做了太史,切不可忘记我想要论述著书的遗志。”他说这便是对他最大的孝道。当父亲反复叮咛“汝其念哉”时,司马迁俯首流涕,发誓绝不违背遗命。

【日】 父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷しばせんは太史令たいしれいの職を継いだ。父の蒐集しゅうしゅうした資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝ふしそうでんの天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初たいしょ元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記しきの編纂へんさんに着手した。遷、ときに年四十二。

【中】 父亲死后两年,司马迁果然继任了太史令之职。他本想立刻利用父亲收集的资料和宫廷珍藏的秘册,着手这项父子相传的天职。但上任后交办给他的首要任务,却是历法改革的工程。他全身心投入这项工作,整整耗时四年。直到太初元年终于完成,他才旋即着手《史记》的编纂。那时,司马迁四十二岁。

【日】 腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋しゅんじゅうを推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝さでんや国語こくごになると、なるほど事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮あざやかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許みもと調べの欠けているのが、司馬遷しばせんには不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底ていのものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積うっせきしたものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創つくるという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画えがいてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子こうしに倣ならって、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異ことにした述而不作のべてつくらずである、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。

【中】 腹稿早已拟好。根据腹稿,这部史书的形式将与以往的任何史书都不相同。作为展示道义批判标准的典范,他推崇《春秋》,但作为传达事实的史书,他无论如何都觉得不够满足。他需要更多的事实。与其要教训,不如要事实。到了《左传》和《国语》,事实固然是有了,特别是《左传》叙事的精妙,令人除了感叹别无他词。然而,却缺乏对创造事实的每一个个体的探求。即便他们在事件中的姿态被描绘得鲜明生动,但对于他们何以至此的生平背景调查却付之阙如,这让司马迁感到不满。而且,以往的史书,都以让当代人知晓往事为主旨,作为让未来人知晓当代的准备却显得极度缺乏。总而言之,司马迁渴望的东西,在传统的史书中是求之不得的。究竟传统史书在何处无法令人满意,或许连他自己也是在试着写出心中所求之后,才渐渐明朗起来。将胸中那股模糊郁结之气书写出来的冲动,远远走在了对传统史书批判的前面。或者说,他的批判,唯有通过创造新事物的方式才能体现。他对自己长久以来在脑海中勾勒的构想是否能称之为“史”,并无自信。但无论算不算得上“史”,总之这种东西才是最必须被写出来的(为了世人,为了后代,尤其是为了他自己),在这一点上,他却有着绝对的自信。他也效仿孔子采取了“述而不作”的方针,但他的“述而不作”在内容上与孔子大相径庭。对司马迁而言,单纯编年体的事件罗列,还不够格纳入“述”的范畴;而那种会阻碍后世之人了解事实真相的过度道义评判,反倒被他视为属于“作”的行列。

【日】 漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝しこうていの反文化政策によって湮滅いんめつしあるいは隠匿いんとくされていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文の興おこらんとする気運が鬱勃うつぼつとして感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史の出現を要求しているときであった。司馬遷しばせん個人としては、父の遺嘱いしょくによる感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然こんぜんたるものを生み出すべく醗酵はっこうしかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀ごていほんぎから夏殷周秦かいんしゅうしん本紀あたりまでは、彼も、材料を按排あんばいして記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽こうう本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。

【中】 汉朝定鼎天下已历五代百年,因秦始皇反文化政策而湮灭或被藏匿的典籍,终于开始在世间流传,一种文化复兴的郁勃气象已能被真切感知。不仅是汉室朝廷,更是这个时代,在呼唤着“史”的出现。就司马迁个人而言,因父亲遗命而生的感激,伴随着学识、观察力与笔力的充实,终于发酵,即将孕育出浑然天成之作。他的工作进展得极为顺畅,甚至顺畅得让他感到些许困扰。因为,从最初的《五帝本纪》到《夏殷周秦本纪》这部分,他还能保持作为一个妥善安排材料、力求记述准确严密的“技师”身份,但过了秦始皇,写到《项羽本纪》时,那位技术家的冷静便开始动摇了。一不留神,项羽仿佛附身于他,又或者他将自己代入了项羽。

【日】 項王則すなわチ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞ぐ。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬しゅんめ名ハ騅すい、常ニ之これニ騎ス。是ここニ於おいテ項王乃すなわチ悲歌慷慨こうがいシ自ラ詩ヲ為つくリテ曰いわク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋おおフ、時利アラズ騅逝ゆカズ、騅逝カズ奈何いかんスベキ、虞ヤ虞ヤ若なんじヲ奈何いかニセン」ト。歌フコト数けつ、美人之ニ和ス。項王泣なみだ数行下ル。左右皆泣キ、能よク仰ギ視みルモノ莫なシ……。

【中】 “项王则夜起,饮帐中。有美人名虞,常幸从;骏马名骓,常骑之。于是项王乃悲歌慷慨,自为诗曰:‘力拔山兮气盖世,时不利兮骓不逝。骓不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何!’歌数阕,美人和之。项王泣数行下,左右皆泣,莫能仰视……”

【日】 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌はつらつたる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有もった者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止やめる。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽こううが項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝しこうていも楚その荘王そうおうもみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊はんかいや范増はんぞうが、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。

【中】 “这样写行吗?”司马迁不禁怀疑。这样如热病发作般的狂热笔触,真的可以吗?他极度警惕自己越界去“作”。他的工作,仅仅在于“述”。事实上,他也确实只是在“述”。但是,这是何等生气勃勃的“述”啊!若非拥有异常想象视角的奇才,断然写不出这等文字。他有时太害怕自己滑向“作”,便会重读已写好的部分,删去那些能让历史上的人物如现实活人般跃动起来的字句。一旦删去,那个人物确实就停止了鲜活的呼吸。这样一来,固然不必担心涉嫌“作”了。可是(司马迁想),这样一来项羽就不再是项羽了。项羽、秦始皇、楚庄王,全都变成了一模一样的人。把不同的人写成一样的人,这算门子“述”?所谓“述”,不就应该将不同的人,按其本来不同的面貌讲述出来吗?想到这里,他还是不得不将删改的字句重新复原。恢复原貌后,再读一遍,他才终于安心。不,不仅仅是他安心。仿佛被写进书中的那些历史人物——项羽、樊哙、范增,也终于安心地各就各位了。

【日】 調子のよいときの武帝ぶていは誠まことに高邁闊達こうまいかったつな・理解ある文教の保護者だったし、太史令たいしれいという職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周ほうとうひしゅうの擠陥讒誣せいかんざんぶによる地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。

【中】 心情大好时的武帝,确实是一位高迈阔达、充满理解力的文教保护者,加之太史令这一职位需要朴实而特殊的技能,这也使他免受了官场中常见的朋党倾轧、谗言诬陷所带来的地位(甚至生命)的动荡。

【日】 数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚かんぷなきまでに説破することを最も得意としていた。

【中】 在那几年间,司马迁度过了充实、甚至可以说是幸福的时光。(当时古人所理解的幸福,与现代人有着截然不同的内涵,但人们对它的追求却毫无二致。)他性格中虽无妥协二字,却始终充满阳光,好辩论,易怒易笑,尤其最得意于将论敌驳得体无完肤。

【日】 さて、そうした数年ののち、突然、この禍わざわいが降くだったのである。

【中】 然而,度过了这样的数年之后,这场横祸突然降临了。

【日】 薄暗い蚕室さんしつの中で――腐刑ふけい施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾おこして暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然ぼうぜんと壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬ざんに遭あうこと、死を賜たまうことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死けいしする己おのれの姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵りりょうを褒ほめ上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念けねんは自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋しゅうろうな宮刑きゅうけいにあおうとは! 迂闊うかつといえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有もっていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨こうがいの士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒とには緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判わかってくるのだと。司馬遷しばせんは自分を男だと信じていた。文筆の吏りではあっても当代のいかなる武人ぶじんよりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂くるまざきの刑なら自分の行く手に思い画えがくことができたのである。それが齢よわい五十に近い身で、この辱はずかしめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室さんしつの中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽おえつとも怒号どごうともつかない叫びが彼の咽喉のどを破った。

【中】 在昏暗的蚕室之中——因遭受腐刑后的一段时间内必须避风,所以要生火取暖,建造一间密闭的暗室,让受刑者在里面待上数日以调养身体。由于这种温暖幽暗的地方形似养蚕的屋子,故名蚕室。——在难以言喻的混乱中,他茫然地靠在墙上。比起愤激,他首先感到的甚至是一种震惊。若是斩首,或是赐死,他平素早已做好了觉悟。他完全能想象自己刑死时的惨状,当他违逆武帝心意为李陵辩护时,心中也曾有过“万一弄不好便会被赐死”的担忧。然而,在诸多刑罚之中,他怎么偏偏就遭受了这最丑陋的宫刑!说他迂阔也罢(既然都能预料到死刑,自然也该预料到其他任何刑罚),他虽想过自己的命运中也许埋伏着不测之死,却根本不曾想到这种丑陋的东西会突然降临。他一直有一种近乎确信的观念:人只会遭遇与自己相称的事件。这是他在长年梳理史实时自然养成的一种想法。同样是逆境,慷慨之士会经受激烈痛彻的苦难,而软弱之徒则会陷入缓慢阴湿的丑陋折磨。即便起初看似不相称,至少从其后应对的方式上,也能看出那命运是与其人相称的。司马迁坚信自己是个真男人。即便身为文吏,他也确信自己比当世任何武将都更有男子气概。这不仅仅是他自诩,哪怕是再不喜欢他的人,也无法否认这一点。因此,依照他自己的持论,若是车裂之刑,他还能在自己的前路上想象一番。可偏偏在将近五十岁的年纪,竟然要承受这等奇耻大辱!他觉得此刻自己身处蚕室,简直就像是在做梦。他多希望这就是一场梦。然而,当他靠在墙上睁开紧闭的双眼,昏暗中,只见三四个毫无生气、宛如灵魂出窍般的男人,正软塌塌地躺着或坐着。当他意识到那就是现在的自己时,一声似呜咽又似怒吼的惨叫冲破了他的喉咙。

【日】 痛憤と煩悶はんもんとの数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢こんていから異なった彼かの国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨うらんだ。一時はその怨懣えんまんだけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者じゅしゃと違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨しえんのために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく措おくとするも、仁君じんくん文帝ぶんていも名君景帝けいていも、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷しばせんは極度の憤怨ふんえんのうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の作なせる疾風暴雨霹靂へきれきに見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な憤いきどおりへと駆かったが、また一方、逆に諦観ていかんへも向かわせようとする。怨恨えんこんが長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣かんしんに向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。それに、自矜心じきょうしんの高い彼にとって、彼ら小人輩しょうじんはいは、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣かんしんや酷吏こくりよりも始末が悪い。少なくとも側かたわらから見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁はんばくもせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相じょうしょう公孫賀こうそんがのごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛あゆ迎合げいごうを事としても、杜周としゅう(最近この男は前任者王卿おうけいを陥れてまんまと御史大夫ぎょしたいふとなりおおせた)のような奴やつは自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。

【中】 在痛愤与烦闷交织的几天里,学者习惯性的思索——或者说反省,时而会涌上心头。他不禁去想:在这次事件中,究竟是什么——是谁——是谁的哪个地方,做错了?因为身处一个君臣之道与日本截然不同的国度,他自然首先怨恨起了武帝。实话说,一时之间,他满心皆是怨懑,根本无暇顾及其他。然而,当短暂的狂乱期过去之后,作为历史学家的他苏醒了。不同于儒者,他深知对先王的价值也要打上历史学家的折扣,因此在评价当今圣上武帝时,他也未因私怨而有失公允。无论如何,武帝毕竟是位大君主。哪怕他有千般缺点,只要有这位君王在,汉室天下便稳如泰山。且不论高祖,即便是仁君文帝、名君景帝,与这位君王相比,格局终究小了些。只不过,庞大的事物,其缺点自然也被放大,这也是无可奈何之事。司马迁即便在极度愤怨之中,也未曾忘记这一点。把这次的遭遇当作是一场老天爷降下的狂风暴雨与晴天霹雳,这种想法虽让他陷入更加绝望的愤怒,但同时又让他产生了一种逆向的达观。怨恨既然无法长久地对准君主,便势必转向了君侧的奸臣。是他们不好。确实如此。但这种“不好”,是极其次要的。再说,对于自尊心极高的他而言,那些小人,甚至不够资格作为他怨恨的对象。他平生从未像这次这般对“老好人”感到如此气愤。这比奸臣和酷吏更难对付。至少从旁观者的角度来看,令人作呕。他们廉价地让自己的良心获得安宁,也让别人感到安宁,这就越发可恶。既不辩护,也不反驳。心中既无反省,亦无自责。丞相公孙贺便是这类人的代表。同样是阿谀逢迎,像杜周(此人最近刚陷害了前任王卿,成功爬上御史大夫之位)这种家伙心里肯定跟明镜似的;而这位老好人丞相,连这份自觉都没有。即便被自己骂作“全躯保妻子之臣”,这种货色恐怕连气都不会生吧。这种货色,连让我去恨的价值都没有。

【日】 司馬遷は最後に忿懣ふんまんの持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵りりょうのために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別拙まずかったとは考えぬ。阿諛あゆに堕だするに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受かんじゅしなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解しかいされようと腰斬ようざんにあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑きゅうけいは――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言しょくげんの余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに癒いえることもあろうが、己おのが身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? 己おのれのどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強しいていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。

【中】 司马迁最后试图将忿懑发泄到自己身上。实际上,如果非要找个对象来发火,最终除了对自己,别无他途。可是,自己哪里做错了呢?为李陵辩护,无论怎么想,他不认为这是错的。在方法上,他也不认为特别笨拙。只要不甘心堕落为阿谀之徒,那当时也别无选择了。既然反躬自省无愧于心,那么这份无愧的行为无论招致何种后果,作为士人理应甘之如饴。话虽如此,确实也该如此。所以,即便是被肢解,被腰斩,他也打算心甘情愿地承受。但是,这宫刑——这刑罚导致自己身体沦落至此的惨状——却截然不同。同为残疾,这与断足割鼻完全是两码事。这不是施加于士人身上的刑罚。唯独这等事,唯独身体变成这副模样,无论从哪个角度看,都是彻头彻尾的“恶”。没有任何粉饰的余地。如果只是心伤,或许会随时间而痊愈,但他这具身体的丑恶现实,却将一直持续到死。无论动机为何,招致这等后果的,终究只能说是“做错了”。可是,错在哪里?自己哪里错了?哪里都没有错。自己做的全是对的。如果非要找个错,那大概只是“有我”这个事实本身,便是错的。

【日】 茫然ぼうぜんとした虚脱きょだつの状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻まわる。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。

【中】 时而呆坐在茫然虚脱的状态中,时而又突然跳起,如受伤的野兽般在阴暗温暖的室内一边呻吟一边来回踱步。在无意识中重复着这些举动,他的思绪也总是在同一个地方打转,找不到出路。

【日】 我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣ふんまんとの中で、たえず発作ほっさ的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然ばくぜんと感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。

【中】 除了几次忘我地用头撞墙流下鲜血之外,他并没有尝试自杀。他想死。若是能死该有多好。被比死可怕数倍的耻辱驱赶着,他早已没有了对死亡的恐惧。为什么没死成?这固然是因为狱中没有可以自尽的器具。但是,除此之外,还有某种东西从内心里阻止了他。起初,他并没有意识到那是什么。只是在狂乱与愤懑中,尽管不断地爆发着对死亡的向往,另一方面,他却隐约感觉到,有某种东西不愿让他的心思倒向自杀。明明不清楚自己忘了什么,但总觉得像是遗忘了某件要紧的事。正是那种感觉。

【日】 許されて自宅に帰り、そこで謹慎きんしんするようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一ひと月狂乱にとり紛まぎれて己おのが畢生ひっせいの事業たる修史しゅうしのことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻はばむ役目を隠々いんいんのうちにつとめていたことに気がついた。

【中】 直到被宽宥回家,在家中闭门思过之后,他才第一次意识到:在这一个月狂乱的迷惘中,自己竟然把毕生事业——修史——给忘得一干二净。然而,表面上虽然忘了,对那份工作无意识的关切,却在暗中起到了阻止他自杀的作用。

【日】 十年前臨終りんじゅうの床とこで自分の手をとり泣いて遺命いめいした父の惻々そくそくたる言葉は、今なお耳底じていにある。しかし、今疾痛しっつう惨怛さんたんを極きわめた彼の心の中に在あってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡たのしい態ていのものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然こうぜんとして自らを恃じする自覚ではない。恐ろしく我がの強い男だったが、今度のことで、己おのれのいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張いばってみたところで、所詮しょせん己は牛にふみつぶされる道傍みちばたの虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃じじも失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡たのしいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁いんねんに近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋つながりによってである)ということだけはハッキリしてきた。

【中】 十年前,在临终的病榻上,父亲握着他的手,哭泣着留下遗命,那哀恸切切的话语,至今仍在耳畔回响。但是,如今在他处于疾痛惨怛至极的内心中,依然让他无法断绝修史念头的,并非只有父亲的话。那比什么都重要的是,这份工作本身。这并非什么工作的魅力,或是对工作充满热情的令人愉悦之物。虽然这无疑是一种对修史使命的自觉,但却不是那种昂首挺胸、恃才傲物的自觉。他本是个极其固执己见的男人,但经历了这次灾厄,他深深地意识到了自己的渺小。哪怕吹嘘着什么理想抱负,到头来,自己也不过是如同牛蹄下被踩烂的路边虫豸罢了。“我”被悲惨地踩碎了,但修史这项工作的意义,却是毋庸置疑的。沦落到这般下贱的境地,自信与自恃已丧失殆尽,却依然要苟活于世从事这项工作,无论怎么想,这都不可能是一件快乐的事。对他自己而言,这几乎接近于一种宿命的因缘,就像是即使再怎么厌恶,也直到最后都不允许断绝关系的人际纠葛。总之,为了这项工作,自己无法了结自己的生命(这并非出于义务感,而是一种更为肉体上的、与这份工作的联系),这一点已变得无比清晰。

【日】 当座の盲目的な獣の呻うめき苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途みちのないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫じょうふたる太史令たいしれい司馬遷しばせんは天漢てんかん三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途みちはなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡なきものと思い込む必要があったのである。

【中】 盲目的野兽般的呻吟痛苦暂告一段落,取而代之的,是更为自觉的、属于人的痛苦。糟糕的是,随着无法自杀这一事实变得明朗,除了自杀之外,再无逃避苦恼与耻辱之途,这一事实也越发刺眼地摆在面前。作为一个男子汉的太史令司马迁,在天汉三年的春天已经死了。而在那之后,继续书写他未竟之史的人,只不过是一台没有知觉、没有意识的抄写机器——除了如此自我催眠,别无他法。哪怕再勉强,他也必须这样逼迫自己去想。修史的工作必须继续。这对他而言是绝对的。为了能继续修史,哪怕再难熬,也必须活下去。而为了活下去,无论如何,都必须完全将自身视作死物。

【日】 五いつ月ののち、司馬遷はふたたび筆を執とった。歓よろこびも昂奮こうふんもない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打むちうたれて、傷ついた脚を引摺ひきずりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些いささか後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令ちゅうしょれいに取立てたが、官職の黜陟ちゅっちょくのごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然しょうぜんたる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊あくりょうにでも取り憑つかれているようなすさまじさを、人々は緘黙かんもくせる彼の風貌ふうぼうの中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。

【中】 五个月后,司马迁再次拿起了笔。没有喜悦,亦无亢奋,只被完成工作的意志所鞭笞,宛如拖着受伤残腿向目的地跋涉的旅人,步履蹒跚地续写着稿件。他已被免去了太史令之职。稍有悔意的武帝,在一段时间后提拔他为中书令,但官职的升迁罢黜,对他而言早已毫无意义。昔日的论客司马迁,变得沉默寡言。既不笑,亦不怒。然而,那绝非是一副凄然的神态。相反,人们从他那缄默的风貌中,能看出一种仿佛被恶灵附体般的可怕气息。他甚至舍不得睡觉的时间,日以继夜地继续工作。在家人们看来,他简直像是个急于一刻不停地完成工作,好早日获得自杀自由的焦躁之人。

【日】 凄惨せいさんな努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓よろこびを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌ふうぼうの中のすさまじさも全然和やわらげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者かんじゃとか閹奴えんどとかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻うめき声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上しょうじょうに横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌きざしてくると、たちまちカーッと、焼鏝やきごてをあてられるような熱い疼うずくものが全身を駈かけめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺あたりを歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己おのれを落ちつけようと努めるのである。

【中】 凄惨地努力了约摸一年后,他终于发现:哪怕完全丧失了生存的喜悦,唯有表现的喜悦依然能够残存。然而,直到那时,他完全的沉默依然没有被打破,那可怕的风貌也没有得到丝毫缓和。在续稿的过程中,每当写到必须使用“宦者”或“阉奴”等字眼时,他便会不自觉地发出一声呻吟。哪怕独自一人在居室里,甚至夜晚躺在床上,一旦屈辱的念头忽然萌生,刹那间,一股犹如被烙铁烫伤般的滚烫剧痛,便会游走全身。他会不由自主地跳起来,发出怪声,一边呻吟一边四下乱走,过好一会儿,才咬紧牙关,努力让自己平静下来。

【日】 乱軍の中に気を失った李陵りりょうが獣脂じゅうしを灯ともし獣糞じゅうふんを焚たいた単于ぜんうの帳房ちょうぼうの中で目を覚ましたとき、咄嗟とっさに彼は心を決めた。自みずから首刎はねて辱はずかしめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償つぐなうに足る手柄を土産みやげとして――か、この二つのほかに途みちはないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。

【中】 在乱军中失去知觉的李陵,在点着兽脂、烧着兽粪的单于帐房中醒来时,他瞬间便下定了决心。要么自行刎颈以免受辱,要么暂且顺从敌军,寻机逃脱——并带上足以弥补败军之责的战功作为见面礼——除此之外,别无他途。而李陵决定选择后者。

【日】 単于ぜんうは手ずから李陵の縄なわを解いた。その後の待遇も鄭重ていちょうを極めた。且侯そていこう単于とて先代の犁湖くりこ単于の弟だが、骨骼こっかくの逞たくましい巨眼きょがん赭髯しゃぜんの中年の偉丈夫いじょうふである。数代の単于に従って漢かんと戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強てごわい敵に遭あったことはないと正直に語り、陵の祖父李広りこうの名を引合いに出して陵の善戦を讃ほめた。虎とらを格殺かくさつしたり岩に矢を立てたりした飛将軍ひしょうぐん李広の驍名ぎょうめいは今もなお胡地こちにまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒わけるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴きょうどのふうであった。ここでは、強き者が辱はずかしめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧きゅうろと数十人の侍者じしゃとを与えられ賓客ひんきゃくの礼をもって遇ぐうせられた。

【中】 单于亲手解开了李陵的绑绳。随后的待遇更是极尽郑重。这位且鞮侯单于是前代句犁湖单于的弟弟,生得骨骼粗大,巨眼红须,是一位中年的伟岸丈夫。他坦诚地说,自己追随过数代单于与汉朝交战,还从未遇见过李陵这般难缠的对手,甚至搬出了李陵祖父李广的名字,大加赞赏李陵的善战。格杀猛虎、射箭入石的飞将军李广之威名,至今仍在胡地流传。李陵之所以受到厚遇,是因为他是强者的子孙,且他本身也很强大。匈奴的风俗便是:分发食物时,强壮者取美味,老弱者吃残羹。在这里,强者绝不会受到屈辱。降将李陵被赐予了一座穹庐、数十名侍者,享受着宾客的待遇。

【日】 李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳じゅうちょう穹盧きゅうろ、食物は羶肉せんにく、飲物は酪漿らくしょうと獣乳と乳醋酒にゅうさくしゅ。着物は狼おおかみや羊や熊くまの皮を綴つづり合わせた旃裘せんきゅう。牧畜と狩猟と寇掠こうりゃくと、このほかに彼らの生活はない。一望際涯いちぼうさいがいのない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于ぜんう直轄地ちょっかつちのほかは左賢王さけんおう右賢王左谷蠡王さろくりおう右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐おって土地を変える。

【中】 对李陵而言,奇异的生活开始了。住所是毡帐穹庐,食物是腥膻之肉,饮品是酪浆、兽乳和马奶酒。衣物是用狼、羊、熊皮拼缀而成的毡裘。除了游牧、狩猎与劫掠,他们没有别的生活。虽然身处一望无际的高原,但却有着由河流行、湖泊与群山划定的边界。除单于直辖地外,其余皆分封给左贤王、右贤王、左谷蠡王、右谷蠡王以下诸王侯,牧民的迁徙也仅限于各自的边界之内。这是一个没有城郭亦无田地的国度。虽有村落,却随着季节逐水草而居,不断变换着土地。

【日】 李陵には土地は与えられない。単于麾下きかの諸将とともにいつも単于に従っていた。隙すきがあったら単于の首でも、と李陵は狙ねらっていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地こちにあって単于と刺違えたのでは、匈奴きょうどは己おのれの不名誉を有耶無耶うやむやのうちに葬ってしまうこと必定ひつじょうゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強しんぼうづよく、その不可能とも思われる機会の到来を待った。

【中】 李陵没有被分予土地。他与单于麾下的诸将一起,总是随侍单于左右。李陵暗自盘算着“若有机会就取下单于的首级”,但机会却迟迟未到。就算成功刺杀了单于,若没有绝佳的运气,想提着他的首级逃出生天,也几乎是不可能的。如果只是在胡地与单于同归于尽,匈奴势必会将这等不名誉之事含糊其辞地掩盖过去,消息恐怕根本传不到汉朝。李陵耐心地、苦苦等待着那几乎不可能到来的良机。

【日】 単于ぜんうの幕下ばっかには、李陵りりょうのほかにも漢の降人こうじんが幾人かいた。その中の一人、衛律えいりつという男は軍人ではなかったが、丁霊王ていれいおうの位を貰もらって最も重く単于に用いられている。その父は胡人こじんだが、故ゆえあって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉きょうりつとい李延年りえんねんの事に坐ざするのを懼おそれて、亡にげて匈奴きょうどに帰きしたのである。血が血だけに胡風こふうになじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且侯そていこう単于ぜんうの帷幄いあくに参じてすべての画策に与あずかっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人かんじんの降くだって匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。

【中】 单于的幕下,除了李陵之外,还有几个汉朝降人。其中一人名叫卫律,并非军人,却获封丁零王,受单于重用。他父亲虽是胡人,卫律却因故在汉朝都城出生长大。他原侍奉武帝,前些年因惧怕受协律都尉李延年一案的牵连,逃亡归附了匈奴。毕竟身上流着那样的血,他很快便融入了胡风,加之确是个有些才干的人,因而常在且鞮侯单于帷幄之中,参赞一切画策。李陵与以卫律为首的这些降于匈奴的汉人,几乎从不搭话。他觉得,没有哪个人能与他共谋脑海中的那个计划。说来也怪,其他汉人彼此之间似乎也总感到一种莫名的尴尬,相互间从不曾亲近交往。

【日】 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞こうたことがある。それは東胡とうこに対しての戦いだったので、陵は快く己おのが意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌いやな表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強しいて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠こうりゃくする軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後じご、単于は陵にふふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。

【中】 单于曾叫李陵过去,请教军略。那次是针对东胡的战役,李陵便痛快地表达了自己的意见。当单于下一次来商议同样的事情时,却是关于对汉军作战的策略。李陵毫不掩饰地露出了厌恶的表情,紧闭双唇。单于也没有强求他回答。过了许久,单于要求李陵作为寇掠代、上郡军队的一员主将南下。这一次,李陵以无法参与对汉作战为由,断然拒绝。此后,单于再也没有向李陵提出过此类要求。待遇依然如故。这让他觉得,单于并没有别的利用目的,纯粹是为了礼遇士人而礼遇士人。总之,李陵觉得这位单于算个真汉子。

【日】 単于の長子・左賢王さけんおうが妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野そやではあるが勇気のある真面目まじめな青年である。強き者への讃美さんびが、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射きしゃを教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧うまい。ことに、裸馬らばを駆る技術に至っては遙はるかに陵を凌しのいでいるので、李陵はただ射しゃだけを教えることにした。左賢王さけんおうは、熱心な弟子となった。陵の祖父李広りこうの射における入神にゅうしんの技などを語るとき、蕃族ばんぞくの青年は眸ひとみをかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅わずかの供廻ともまわりを連れただけで二人は縦横に曠野こうやを疾駆しっくしては狐きつねや狼おおかみや羚羊かもしかやおおとりや雉子きじなどを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙はるかに駈抜かけぬいていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭むちうち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻しりに飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀わんとうをもって見事みごとに胴斬どうぎりにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛かみ裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕てんまくの中で今日の獲物を羹あつものの中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜すするとき、李陵は火影ほかげに顔を火照ほてらせた若い蕃王ばんおうの息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

【中】 单于的长子左贤王,莫名其妙地开始对李陵表现出好感。与其说是好感,不如说是尊敬。这是一个刚过二十岁,虽然粗野却充满勇气、性情直率的青年。他对强者的赞美,纯粹而热烈。起初,他跑到李陵那里,求李陵教他骑射。虽说是骑射,但论骑术,他并不逊于李陵。尤其在驾驭光背马的技艺上,远超李陵,因此李陵只打算教他射箭。左贤王成了一个热心的弟子。当李陵讲起祖父李广在箭术上出神入化的造诣时,这位蕃族青年总是眼眸闪闪发亮,听得入了迷。两人常常结伴去打猎。只带极少数的随从,两人便在旷野上纵横驰骋,射猎狐狸、野狼、羚羊、大雕和野鸡。有一次傍晚时分,箭已将尽的两人——因为他们的马远远甩开了随从——被一群恶狼包围了。两人扬鞭催马,全速冲出狼群才得以逃生,其间,一只扑向李陵马尾的狼,被跟在后面的青年左贤王一记漂亮的弯刀拦腰斩断。事后查看,两人的马都被狼撕咬得鲜血淋漓。在那样的一天之后,夜晚,在天幕中将白天的猎物丢进肉汤里,呼呼吹着热气吸溜时,李陵看着火光映红脸庞的年轻蕃王之子,有时甚至会恍惚感到一丝类似友情的东西。

【日】 天漢三年の秋に匈奴きょうどがまたもや雁門がんもんを犯した。これに酬むくいるとて、翌四年、漢は弐師じし将軍李広利りこうりに騎六万歩七万の大軍を授さずけて朔方さくほうを出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくにこれを援たすけしめた。ひいて因※いんう[#「木+于」、U+6745、39-13]将軍公孫敖こうそんごうは騎一万歩三万をもって雁門を、游撃ゆうげき将軍韓説かんせつは歩三万をもって五原ごげんを、それぞれ進発する。近来にない大北伐ほくばつである。単于ぜんうはこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水しょごすい(ケルレン河)北方の地に移し、自みずから十万の精騎を率いて李広利りこうり・路博徳ろはくとくの軍を水南すいなんの大草原に邀むかえ撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵りりょうに師事する若き左賢王さけんおうは、別に一隊を率いて東方に向かい因※いんう[#「木+于」、U+6745、39-18]将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説かんせつの軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣きづかっている己おのれを発見して愕然がくぜんとした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴きょうどの敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。

【中】 天汉三年秋,匈奴再次进犯雁门。为报此仇,次年即天汉四年,汉朝命贰师将军李广利统帅六万骑兵、七万步兵的大军出朔方,命强弩都尉路博德率一万步兵以为声援。又命杅将军公孙敖率一万骑兵、三万步兵出雁门,游击将军韩说率三万步兵出五原。这是近年少有的大举北伐。单于接报后,立刻将老弱妇孺、畜群、辎重悉数转移至余吾水(克鲁伦河)以北,亲率十万精骑,在水南的大草原上迎击李广利与路博德之军。连战十余日,汉军最终被迫撤退。师事李陵的年轻左贤王,则另率一军向东迎击杅将军,并将其打得大败。作为汉军左翼的韩说之军亦无功而返。北征彻底失败。李陵照例没有出现在与汉军作战的阵前,退避到了水北,但他却骇然发现,自己竟然在暗暗挂念左贤王的战绩。当然,从整体上讲,他无疑是盼望汉军得胜、匈奴败北的,但似乎唯独对左贤王,他却隐隐有些不愿让他吃败仗。李陵察觉到这一点,不禁狠狠地自责起来。

【日】 その左賢王に打破られた公孫敖こうそんごうが都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉かどで牢ろうに繋つながれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜ほりょが、匈奴軍の強いのは、漢から降くだった李り将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗まけたことの弁解にはならないから、もちろん、因※いんう[#「木+于」、U+6745、40-8]将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄ごくに収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西ろうせい(李陵の家は隴西の出である)の士大夫したいふら皆李家を出したことを恥としたと記されている。

【中】 被左贤王击败的公孙敖回到都城,因丧失大量士卒且无功而返被下狱时,竟做了一番奇妙的辩解。他说,据敌方俘虏供述,匈奴军队之所以强大,是因为降将李将军常年为其练兵,传授军略,以防备汉军。此言固然不能成为己军战败的借口,所以杅将军的罪过自然未能免除,但武帝听闻此言后对李陵勃然大怒,自不待言。一度被宽恕而回到家中的李陵一族,再次被收监,这一回,从李陵的老母,到妻子、儿女、弟弟,悉数被杀。世态炎凉向来如此,史载当时陇西(李陵本家出自陇西)的士大夫皆以出李家为耻。

【日】 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致らちされた一漢卒かんそつの口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉むなぐらをつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛しばり、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶くもんの呻うめきを洩もらした。陵りょうの手が無意識のうちにその男の咽喉いんこうを扼やくしていたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房ちょうぼうの外へ飛出した。

【中】 这个消息传入李陵耳中,已是半年以后的事,是从一名从边境被掳来的汉兵口中得知的。听到此言,李陵猛地站起,一把揪住那男人的衣襟,粗暴地摇晃着,再次确认事情的真伪。得知确凿无误后,他咬紧牙关,双手不自觉地使上了劲。那男人拼命挣扎,发出痛苦的呻吟。原来李陵的双手,在无意识中已经死死掐住了他的喉咙。李陵一松手,那男人扑通一声倒在地上。李陵看也不看他一眼,飞奔出了帐房。

【日】 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦うずを巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼やけるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇こかつさせてしまうのであろう。

【中】 他在原野上漫无目的地狂奔。激烈的愤怒在脑海中旋涡般翻滚。一想到老母和幼子,他的心便如烈火焚烧,却流不出一滴眼泪。或许是那强烈的愤怒,将泪水彻底烤干了吧。

【日】 今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広りこうの最期さいごを思った。(陵の父、当戸とうこは、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹たてながら、君側の姦佞かんねいに妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位しゃくい封侯ほうこうを得て行くのに、廉潔れんけつな将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧せいひんに甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青えいせいと衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下ばっかの一軍吏ぐんりが虎とらの威いを借りて李広を辱はずかしめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自みずから首刎はねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶おぼえている。……

【中】 并非仅限这一次。迄今为止,我们一家到底受到了汉朝怎样的待遇?他想起了祖父李广的临终。(李陵的父亲李当户,在李陵出生前数月便已去世。李陵是个遗腹子。因此,将少年时代的他教育、锻炼成人的,正是这位著名的祖父。)名将李广在数次北征中立下大功,却被君侧的奸佞阻挠,未能得到丝毫恩赏。部下诸将接连获得爵位封侯,廉洁的将军本人却别说封侯,只能始终甘守清贫。最后,他与大将军卫青发生了冲突。平心而论,卫青多少还存着些体恤老将的心思,但他麾下的一个军吏却狐假虎威,羞辱了李广。悲愤交加的老名将当场——在军营中自刎了。听到祖父死讯时放声大哭的少年时代的自己,李陵至今仍记得清清楚楚。……

【日】 陵の叔父(李広の次男)李敢りかんの最後はどうか。彼は父将軍の惨みじめな死について衛青を怨うらみ、自ら大将軍の邸に赴おもむいてこれを辱はずかしめた。大将軍の甥おいにあたる嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいがそれを憤って、甘泉宮かんせんきゅうの猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿しかの角に触れて死んだと発表させたのだ。……。

【中】 李陵的叔父(李广的次子)李敢的下场又如何?他因父亲凄惨的死而怨恨卫青,亲自前往大将军府邸将其羞辱。大将军的外甥、骠骑将军霍去病为此大为愤慨,在甘泉宫狩猎时将李敢射杀。武帝明知此事,为了包庇骠骑将军,竟对外宣称李敢是被鹿角触死的。……

【日】 司馬遷しばせんの場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒ふんぬがすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于ぜんうの首でも持って胡地こちを脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地こちにあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々うんぬん」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒りしょという者がある。元、塞外都尉さいがいといとして奚侯城けいこうじょうを守っていた男だが、これが匈奴きょうどに降くだってから常に胡軍こぐんに軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖こうそんごうの軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵りりょうは思った。同じ李り将軍で、李緒りしょとまちがえられたに違いないのである。

【中】 与司马迁的情况不同,李陵这边则简单得多。愤怒便是一切。(除了后悔未能哪怕再勉强一些、再早一点执行那个悬而未决的计划——提着单于的首级逃离胡地——之外,)问题仅仅在于该如何将这愤怒表达出来。他想起了刚才那男人的话:“听闻李将军在胡地练兵以备汉军,陛下龙颜大怒云云”。他终于恍然大悟。当然,他自己并无这种记忆,但在汉朝降将中,确有一人名叫李绪。此人原为塞外都尉,戍守奚侯城,降匈奴后,一直教授胡军军略、操练兵马。事实上,在半年前的战役中,他也随单于出征(虽未与惹出是非的公孙敖之军交锋),与汉军交过战。就是这个,李陵心想。同为李将军,定是把自己与李绪搞混了。

【日】 その晩、彼は単身、李緒の帳幕ちょうばくへと赴おもむいた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃たおれた。

【中】 当晚,他单枪匹马闯入了李绪的营帐。他一言不发,也不容对方说半个字。只一剑,李绪便倒地毙命。

【日】 翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要いらぬと単于は言う。だが母の大閼たいえん氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴きょうどの風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾さいしょうのすべてをそのまま引きついで己おのが妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有もっているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣やるから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山とうかんざん(額林達班嶺がくりんたっぱんれい)の麓ふもとに身を避けた。

【中】 次日清晨,李陵来到单于面前说明了原委。单于说不必担心。不过母亲大阏氏那边有些麻烦——这是因为,单于的母亲虽已相当老迈,似乎仍与李绪有苟且之事。单于对此也是心知肚明。按照匈奴的习俗,父亲死后,长子需将亡父的所有妻妾悉数继承为自己的妻妾,但唯独生母不在其列。对于生母的尊敬,即便是极端男尊女卑的他们也还是有的。——单于接着说,现在请你暂且去北方躲避一阵,等风头过去,我再派人去接你。遵此吩咐,李陵暂时带着随从,避居到了西北的兜衔山(额林达班岭)山麓。

【日】 まもなく問題の大閼たいえん氏が病死し、単于ぜんうの庭ていに呼戻されたとき、李陵りりょうは人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与あずからなかった彼が、自みずから進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王うこうおうに任じ、己おのが娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇ちゅうちょなく妻としたのである。ちょうど酒泉しゅせん張掖ちょうえきの辺を寇掠こうりゃくすべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山しゅんけいざんの麓ふもとを過よぎったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己おのれに従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染しみ込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。

【中】 没过多久,惹麻烦的大阏氏病死,当李陵被召回单于王庭时,他整个人仿佛脱胎换骨。因为,此前绝不参与对汉军略的他,竟主动提出愿意参谋划策。单于见此转变大为欢喜。他封李陵为右校王,并将自己的一名女儿嫁给了他。将女儿下嫁之事以前也提过,但李陵一直婉拒。这一次,他却毫不踌躇地娶她为妻。当时正有一支欲南下寇掠酒泉、张掖一带的军队,李陵主动请缨随军出征。然而,当大军向西南行进,偶然路过浚稽山麓时,李陵的心情终究还是黯淡了下来。想到曾经在这片土地上追随自己死战的部下们,走在掩埋着他们的尸骨、浸透了他们鲜血的沙土上,再想想现在的处境,他再也鼓不起南下与汉军作战的勇气了。他托辞生病,独自一人拨马折返了北方。

【日】 翌、太始たいし元年、且侯そていこう単于ぜんうが死んで、陵と親しかった左賢王さけんおうが後を嗣ついだ。狐鹿姑ころくこ単于というのがこれである。

【中】 次年,即太始元年,且鞮侯单于去世,与李陵交好的左贤王继位。这便是狐鹿姑单于。

【日】 匈奴きょうどの右校王うこうおうたる李陵りりょうの心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅ぞくめつされた怨うらみは骨髄こつずいに徹しているものの、自みずから兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌きらいな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬しゅんめを駆って曠野こうやに飛び出す。秋天一碧しゅうてんいっぺきの下、々かつかつと蹄ひづめの音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸ほとりに下り、馬に飲みずかう。それから己おのれは草の上に仰向あおむけにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落へきらくの潔きよさ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子いちりゅうしのみ、なんぞまた漢と胡ことあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨またがり、がむしゃらに駈かけ出す。終日乗り疲れ黄雲こううんが落暉らっきにくんずるころになってようやく彼は幕営ばくえいに戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。

【中】 作为匈奴右校王的李陵,内心依然迷茫。尽管母亲妻儿被族灭的怨恨彻骨铭心,但自己终究无法亲率大军与汉朝作战,这在前些日子的经历中已彰明较著。虽发誓绝不再踏上汉朝的土地,但能否彻底归化于匈奴之俗,终生安之若素,即便是借着与新单于的友情,他心里依然没底。不愿多想的他,一旦焦躁起来,总是独自策骏马飞驰于旷野。在一碧如洗的秋空下,伴随着得得的清脆蹄声,不分草原还是丘陵,如发狂般纵马驰骋。一口气狂奔数十里,直到人困马乏,才寻一处高原上的小溪,下马让坐骑饮水。然后他自己仰面躺在草地上,沉浸在惬意的疲惫感中,痴痴地仰望着苍穹的洁净、高远与辽阔。啊,我本不过是天地间的一粒微尘,又何必再分什么汉与胡呢?他有时会忽然生出这样的念头。歇息片刻后,他又跨上马背,发疯似的飞奔。直到跑了整整一天,精疲力竭,黄云在落日余晖中熏染开来之时,他才回到营帐。疲惫,成了他唯一的救赎。

【日】 司馬遷しばせんが陵りょうのために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶あいさつをしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭いやに議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりにも自分一個の苦しみと闘たたかうのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

【中】 有人传来消息,说司马迁因替李陵辩护而获罪。李陵既没觉得感激,也没觉得可怜。他与司马迁虽相识,也曾互相打过招呼,却算不上有什么深交。甚至,他只觉得司马迁是个动不动就爱高谈阔论、惹人嫌的家伙。更何况,现在的李陵为了与自己一己的痛苦作斗争,早已无暇去体味他人的不幸。即便不觉得他是多管闲事,但也没有感到特别的抱歉,这也是事实。

【日】 初め一概に野卑やひ滑稽こっけいとしか映うつらなかった胡地こちの風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服こふくでなければ朔北さくほくの冬は凌しのげないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪たえるだけの精力を貯たくわえることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶けなし去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保たもとうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。

【中】 起初,胡地的风俗在李陵眼中无一例外都显得粗野滑稽。然而,一旦将其置于当地实际的风土、气候等背景中去考量,李陵渐渐明白,这绝非什么粗野或不合理。若不穿厚实的皮革胡服,根本无法熬过朔北的严冬;若不吃肉,便无法积攒足以抵御胡地苦寒的精力。不筑固定的房屋也是他们生活形态决定的必然,一味贬低其为低级是不公允的。若执意要保留汉人的习俗,在这胡地的自然环境中,哪怕是一天的生活也维持不下去。

【日】 かつて先代の且侯そていこう単于ぜんうの言った言葉を李陵りりょうは憶おぼえている。漢の人間が二言めには、己おのが国を礼儀の国といい、匈奴きょうどの行ないをもって禽獣きんじゅうに近いと看做みなすことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂いいではないか。利を好み人を嫉ねたむこと、漢人と胡人こじんといずれかはなはだしき? 色に耽ふけり財を貪むさぼること、またいずれかはなはだしき? 表うわべを剥はぎ去れば畢竟ひっきょうなんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉こつにく相あい喰はむ内乱や功臣連の排斥はいせき擠陥せいかんの跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人ぶじんたる彼は今までにも、煩瑣はんさな礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗こぞくの粗野そやな正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙はるかに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏しょかの俗を正しきもの、胡俗こぞくを卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字あざながなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。

【中】 李陵回想起了前代且鞮侯单于曾说过的话。针对汉人动辄自称礼仪之邦,将匈奴的行为视同禽兽的说法,单于反驳道:“汉人所谓的礼仪是什么?不过是把丑陋的东西在表面上装饰得光鲜亮丽的虚荣罢了。好利嫉妒,汉人与胡人谁更甚?耽于美色、贪得无厌,又是谁更甚?剥去表皮,终究没什么两样。只不过汉人懂得蒙骗粉饰,而我们不懂罢了。”当单于援引汉初以来骨肉相残的内乱、以及排斥倾轧功臣们的旧事为例这样说时,李陵几乎无言以对。实际上,身为一介武人,他以前也曾不止一次对那种繁琐的、为了礼而礼的做法感到过怀疑。确实,他有时觉得,胡俗中粗野的直爽,比起隐藏在美名阴影下汉人的阴险,往往要讨人喜欢得多。将诸夏之俗视为正统,一口咬定胡俗就是低贱的,这难道不是一种太过汉人式的偏见吗?李陵渐渐生出这样的想法。比如,以前他毫无理由地坚信人除了“名”之外还必须有“字”,但仔细一想,哪里也找不到这“字”是绝对必需的理由。

【日】 彼の妻はすこぶる大人おとなしい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利きけない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝ひざに匍上はいあがって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安ちょうあんに残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤おもかげをふと思いうかべて李陵は我しらず憮然ぶぜんとするのであった。

【中】 他的妻子是个极其温顺的女人。至今在丈夫面前,依然战战兢兢地不敢怎么开口。然而,他们之间生下的男孩,却丝毫不怕父亲,总是步履蹒跚地爬上李陵的膝头。凝视着那孩子的脸庞,李陵会不由自主地想起数年前留在长安的——最终和母亲、祖母一同被杀的——孩子们的面容,不禁怅然若失。

【日】 陵が匈奴きょうどに降くだるよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将ちゅうろうしょう蘇武そぶが胡地こちに引留められていた。

【中】 在李陵降于匈奴之前,恰好就在那一年前,汉朝中郎将苏武被扣留在了胡地。

【日】 元来蘇武は平和の使節として捕虜ほりょ交換のために遣つかわされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛ないふんに関係したために、使節団全員が囚とらえられることになってしまった。単于ぜんうは彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅おびやかしてこれを降くだらしめた。ただ蘇武一人は降服を肯がえんじないばかりか、辱はずかしめを避けようと自みずから剣を取って己おのが胸を貫いた。昏倒こんとうした蘇武に対する胡こいの手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎あなをつくり火うんかを入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈ふんで血を出させたと漢書かんじょには誌しるされている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶こんぜつしたのちにまた息を吹返した。且侯そていこう単于はすっかり彼に惚ほれ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復かいふくすると、例の近臣衛律えいりつをやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈ばりに遭あい、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖あなぐらの中に幽閉ゆうへいされたとき旃毛せんもうを雪に和して喰くらいもって飢えを凌しのいだ話や、ついに北海ほっかい(バイカル湖)のほとり人なき所に徙うつされて牡羊おひつじが乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節じせつ十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵りりょうが悶々もんもんの余生を胡地こちに埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。

【中】 苏武本来是作为和平使节为交换俘虏而被遣派来的。不料,其副使某某偏偏卷入了匈奴的内乱,导致使节团全员被囚。单于没有杀他们,而是以死相逼迫其投降。唯独苏武一人不仅不肯投降,为了免受侮辱,竟自己拔剑刺穿了胸膛。对于昏倒的苏武,胡人的救治之法颇为奇特。据《汉书》记载,他们挖了一个坑,生起微火,让伤者躺在上面,踩踏其背部使瘀血流出。多亏了这番粗暴的治疗,不幸的是,苏武在昏绝了半日之后又缓过气来。且鞮侯单于彻底看中了他。数旬之后,苏武身体终于恢复,单于便又派那近臣卫律去热心地劝降。卫律遭到了苏武铁火般的痛骂,弄得灰头土脸地作罢了。此后,苏武被幽禁于地窖之中时,啮雪和旃毛以吞咽果腹的故事,以及最终被流放至北海(贝加尔湖)畔无人之地,被告知“公羊生乳方可归汉”的故事,连同他持节十九年的大名,都太过有名,此处便不再赘述。总之,当李陵不得不下定决心将自己郁闷的余生埋葬在胡地时,苏武早已在北海之畔独自牧羊多时了。

【日】 李陵りりょうにとって蘇武そぶは二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中じちゅうを勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵ようりょうまでその葬を送った。蘇武の妻が良人おっとのふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁かした噂うわさを聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。

【中】 对李陵而言,苏武是二十多年的挚友。两人曾同时期担任侍中。李陵觉得,苏武虽有些固执刻板,但无疑是罕见的硬骨头。天汉元年苏武北上后不久,苏武的老母病故,李陵还一直送葬送到了阳陵。李陵在出发北征的前夕,听说了苏武的妻子得知丈夫归国无望后改嫁他人的传闻。当时,李陵还为了朋友,对那女人的轻薄大感愤慨。

【日】 しかし、はからずも自分が匈奴きょうどに降くだるようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙はるか北方に遷うつされていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己おのれの家族が戮りくせられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。

【中】 可是,不料当自己也降了匈奴之后,他再也不想见苏武了。苏武被流放到遥远的北方,不用碰面,这反而让他感到庆幸。特别是自己的家属被杀绝、自己彻底断绝了重归汉朝的念头之后,他越发想要避开与这位“持汉节的牧羊者”的会面。

【日】 狐鹿姑ころくこ単于ぜんうが父の後あとを嗣ついでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂うわさが伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。

【中】 狐鹿姑单于继位几年后,一度传出苏武生死不明的传闻。狐鹿姑单于想起了这位连父亲都未能令其屈服的汉使,便委托李陵去确认苏武的安危,若他还健在,便再去劝降一次。单于听闻李陵是苏武的朋友。无可奈何之下,李陵只得向北进发。

【日】 姑且水こじょすいを北に溯さかのぼり居水しっきょすいとの合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海ほっかいの碧あおい水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族ていれいぞくの案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎ごやへと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被かぶった鬚ひげぼうぼうの熊くまのような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監いちゅうきゅうかん蘇子卿そしけいの俤おもかげを見出してからも、先方がこの胡服こふくの大官を前さきの騎都尉きとい李少卿りしょうけいと認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武そぶのほうでは陵が匈奴きょうどに事つかえていることも全然聞いていなかったのである。

【中】 沿姑且水向北溯流而上,从与居延水的合流处继续向西北,穿过森林地带。在尚有多处积雪的河岸上行进了数日,当北海碧蓝的水波终于在森林和原野的尽头显现时,作为当地向导的丁零族人,将李陵一行引至了一间可怜的圆木小屋前。小屋的住客被罕见的人声惊动,手执弓箭走出了门。他头上披着毛皮,胡须蓬乱,活像一头熊般的山野粗汉。当李陵在那张脸上找出了昔日移中厩监苏子卿的面貌时,对方也还需要一段时间,才能认出眼前这位身着胡服的大官竟是前任骑都尉李少卿。苏武这边,根本不知道李陵已投降匈奴的事。

【日】 感動が、陵の内に在あって今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。

【中】 感动,在一瞬间压倒了李陵心中一直抗拒与苏武会面的情绪。两人起初都激动得几乎说不出话来。

【日】 陵の供廻ともまわりどもの穹廬きゅうろがいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑にぎやかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎こやに運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙わたった。

【中】 随从们在周围搭起了几座穹庐,无人之境顿时热闹起来。带来的酒食立刻被搬进了小屋,夜晚传出了罕见的欢笑声,惊动了林中的飞禽走兽。他们在那里逗留了数日。

【日】 己おのが胡服を纏まとうに至った事情を話すことは、さすがに辛つらかった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺さんたんたるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※王おけんおう[#「革+干」、U+976C、49-11]が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、U+976C、49-12]王の死後は、凍いてついた大地から野鼠のねずみを掘出して、飢えを凌しのがなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂うわさは彼の養っていた畜群が剽盗ひょうとうどものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝かでんらしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄すてて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。

【中】 讲述自己何以披上胡服的缘由,终究是令人痛苦的。但李陵没有夹杂半点辩解的腔调,只是陈述了事实。苏武轻描淡写地讲述的这几年的生活,听起来完全是惨绝人寰的。几年前,匈奴的于靬王打猎偶然路过此地,同情苏武,连续三年供给他衣食,但于靬王死后,他竟沦落到只能从冰冻的大地中挖出野鼠来充饥的地步。他生死不明的传闻,大概是因为他放养的畜群被强盗们抢得一干二净而引起的讹传。李陵只告诉了苏武母亲去世的消息,至于妻子抛弃儿子改嫁他人一事,他终究没忍心说出口。

【日】 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺さんたんたる日々をたえ忍んでいるのか? 単于ぜんうに降服を申出れば重く用いられることは請合うけあいだが、それをする蘇武そぶでないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自みずから生命を絶たないのかという意味であった。李陵りりょう自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下おろして了しまった数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累けいるいもない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄せつぼうを持して曠野こうやに飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎はねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌きざしたとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽こっけいなくらい強情な痩我慢やせがまんを思出した。単于ぜんうは栄華を餌えに極度の困窮こんきゅうの中から蘇武を釣つろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪たええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止しょうしには見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠まことに凄すさまじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人おとなげなく見えた蘇武の痩我慢やせがまんが、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴きょうどの単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自みずから顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己おのが事蹟じせきを知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵りりょうは、かつて先代単于ぜんうの首を狙ねらいながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土きょうどの地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空むなしく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武そぶを前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

【中】 这男人究竟是指望什么活下去的?李陵暗自称奇。难道他还在盼着能回汉朝的那一天?从苏武的言谈中察觉,他事到如今似乎连一丝那样的期待都没有了。那他到底是为了什么而在忍受这般惨绝人寰的日子呢?若向单于投降,定会被委以重任,但李陵打从一开始就知道苏武断然不会这么做。李陵所纳罕的,是他为何不早早自我了断。李陵自己无法亲手斩断这毫无希望的生活,是因为不知不觉间已在这片土地上扎下了根,受制于种种恩义与牵绊,也是因为事到如今就算死了,也谈不上为汉朝立节。而苏武的情况则不同。他在这里了无牵挂。单从对汉朝的忠信这一层面来考量,一直持着节旄在旷野中忍饥挨饿,与立刻烧掉节旄后自刎,似乎并无分别。想当初被捕时,苏武毫不犹豫地拔剑刺胸,想必现在的他也不可能突然生出怕死的心来。李陵想起了年轻时苏武的那份固执——那种近乎滑稽的死要面子。单于企图以荣华富贵为饵,从极度穷困中将苏武钓出来。若被饵钓中固然是输,哪怕因不堪苦难而自杀,同样也是向单于(或者说向其象征的命运)认输了。苏武难道不是这样想的吗?像是在与命运较劲般的苏武的身姿,在李陵看来,却并不显得滑稽或可笑。如果说,能让他平淡地将超乎想象的困苦、匮乏、酷寒、孤独(而且是将要一直持续到死前的漫长岁月)一笑置之的力量,就是这份“面子(意气)”,那么这意气,实在称得上是何等凄厉而壮阔!看到昔日多少显得有些幼稚的苏武的死要面子,竟已成长为如此惊人的大坚忍,李陵不禁大为惊叹。更何况,这男人压根没指望自己的所作所为能被汉朝知晓。且不说能否再次被迎回汉朝,他甚至不指望会有什么人出现,能将自己在这种无人之地与困苦搏斗的事,传达给汉朝,甚至传达给匈奴单于。在他注定要无人送终、孤零零死去的最后那一天,只要反躬自省,觉得直到最后都一笑置之了命运,便能满足地死去。哪怕没有任何一个人知晓他的事迹,他也毫无怨言。李陵曾想取先代单于的首级,却因害怕即便得手,若无法逃离胡地,这番壮举便成了一场空、名声传不到汉朝,而最终找不到下手的时机。面对不愁不为人知的苏武,他不由得暗自出了一身冷汗。

【日】 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己おのれの過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人ぎじん、自分は売国奴ばいこくどと、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳きびしさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜ひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日ひにちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子ひょうしにひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷ぼろをまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍れんびんの色を、豪奢ごうしゃな貂裘ちょうきゅうをまとうた右校王うこうおう李陵りりょうはなによりも恐れた。

【中】 最初的感动过去之后,过了两三天,李陵心中终究还是生出了一种无法排遣的芥蒂。无论谈及什么,自己与苏武过去经历的对比,都处处让他如鲠在喉。苏武是义人,自己是卖国贼,虽然他并未那么明确地去想,但在被森林、原野和水波的沉默锤炼了多年的苏武的严峻面前,自己过去那些对所作所为唯一的辩护辞——自己的苦恼,简直不堪一击,他无法不感到一种被彻底压倒的窒息。而且,不知是否是错觉,随着日子的推移,他开始在苏武对待自己的态度中,感觉到一种类似富人对待穷人般的态度——一种在明白自己的优越感之后,试图对对方保持宽大的态度。虽然说不清具体在哪里,但偶尔在一个不经意的瞬间,就能察觉到那种东西。衣衫褴褛的苏武眼中,时不时浮现出的一丝微末的怜悯之色,是身披奢华貂裘的右校王李陵比什么都惧怕的。

【日】 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然しょうぜんと南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎ごやに残してきた。

【中】 逗留了大约十日之后,李陵与旧友告别,悄然向南离去。他将充足的粮食衣物留在了森林里的圆木小屋中。

【日】 李陵は単于ぜんうからの依嘱いしょくたる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武そぶの答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱はずかしめるには当たらないと思ったからである。

【中】 至于单于委托的劝降之事,李陵终究连口都没开。苏武的回答不问自明,他觉得事到如今,实在没必要用这种劝告来羞辱苏武,也羞辱自己。

【日】 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳そびえているように思われる。

【中】 回到南方之后,苏武的存在一天也没有从他脑海中散去。隔开距离回想时,苏武的身姿反倒显得更加严峻地耸立在他面前。

【日】 李陵自身、匈奴きょうどへの降服という己おのれの行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬むくいたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。

【中】 李陵自己并非认为投降匈奴的行为是正确的,但他相信,若考虑到自己曾为故国竭尽心力的事迹,以及故国对此所作的回报,即便是再无情的批判者,也终会承认他是“出于无奈”。然而,偏偏这里有这么一个男人,哪怕面对再怎么令人觉得“无可奈何”的处境,也断然不容许自己有“这是无可奈何”的想法。

【日】 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人なんぴとにも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。

【中】 无论是饥饿、寒苦、孤独的折磨,还是祖国的冷淡,甚至是自己坚守的苦节最终极有可能无人知晓这一几乎板上钉钉的事实,对这个男人来说,都不是足以让他改变平生节义的、无可奈何的理由。

【日】 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡くんかいでもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣つかわして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈じゅうせんを贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

【中】 苏武的存在对他而言,既是崇高的训诫,也是令人焦躁的恶梦。他时不时派人去问候苏武的安危,并赠送食品、牛羊和毛毯。想要见苏武的心情,与想要避开苏武的心情,总是在他心中不断交战。

【日】 数年後、今一度李陵は北海ほっかいのほとりの丸木小舎ごやを訪たずねた。そのとき途中で雲中うんちゅうの北方を戍まもる衛兵えいへいらに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守たいしゅ以下吏民りみんが皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪もに相違ない。李陵は武帝ぶていの崩ほうじたのを知った。北海の滸ほとりに到いたってこのことを告げたとき、蘇武そぶは南に向かって号哭ごうこくした。慟哭どうこく数日、ついに血を嘔はくに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯しんしさを疑うものではない。その純粋な烈はげしい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛うかんでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮りくせられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝ちょうから厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭つうこくを見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬たとえようもなく清洌せいれつな純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑おさえようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出わきでる最も親身な自然な愛情)が湛たたえられていることを、李陵ははじめて発見した。

【中】 数年后,李陵再一次造访了北海之畔的圆木小屋。途中,他遇见了在云中以北戍守的卫兵,从他们口中得知,近来汉朝边境从太守以下所有官民皆披白服。百姓无一例外全都披麻戴孝,这定是天子大丧无疑。李陵知道了武帝崩逝的消息。到了北海之滨将此事告知苏武时,苏武面向南方号啕大哭。恸哭数日,竟至呕血。看着这副光景,李陵的心情渐渐沉寂下去。他当然不怀疑苏武恸哭的真诚。那纯粹而激烈的悲叹,不可能不让人为之动容。可是,此时的自己却连一滴眼泪都挤不出来。苏武虽未像李陵那样惨遭灭族,但他的长兄因在天子仪仗出行时引发了轻微的交通事故,他的弟弟因未能捕获某罪犯,双双被迫担责自杀。无论怎么看,都很难说他曾受过汉朝的厚遇。在深知这一切的前提下,此刻看着眼前苏武纯粹的痛哭,李陵第一次发现,以前他只认为是苏武那强烈的意气的东西底下,其实深藏着一种无与伦比的、清冽纯粹的对汉朝故土的爱情(那不是所谓义或节这类从外部强加的东西,而是一种压抑不住、总是汩汩涌出的最切身、最自然的感情)。

【日】 李陵は己おのれと友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己おのれ自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

【中】 李陵撞到了这隔绝自己与友人的根本性的东西上,即使百般不愿,也不得不陷入了对自己深沉幽暗的怀疑之中。

【日】 蘇武そぶの所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝ぶていの死と昭帝しょうていの即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵りりょうの故人とも・隴西ろうせいの任立政じんりっせいら三人であった。

【中】 从苏武处回到南方,恰逢汉朝的使者刚刚抵达。那是为了通报武帝驾崩与昭帝即位,同时为了缔结暂时的友好关系——虽说这友好关系向来维系不了一年——而来的和平使节。而前来的使者,竟不期然地是李陵的故交——陇西的任立政等三人。

【日】 その年の二月武帝が崩じて、僅わずか八歳の太子弗陵ふつりょうが位を嗣つぐや、遺詔いじょうによって侍中奉車都尉じちゅうほうしゃとい霍光かくこうが大司馬だいしば大将軍として政まつりごとを輔たすけることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀じょうかんけつもまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。

【中】 那年二月武帝驾崩,年仅八岁的太子刘弗陵继位后,依照遗诏,由侍中奉车都尉霍光出任大司马大将军辅政。霍光原本与李陵交好,升任左将军的上官桀也是李陵的故人。两人商议着要将李陵召回汉朝。这次的使者之所以特意挑选李陵昔日的老友,正是出于这个原因。

【日】 単于ぜんうの前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律えいりつがそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴きょうどの大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己おのれの刀環とうかんを撫なでて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応こたえるべきかを知らない。

【中】 在单于面前办完了明面上的差事,便设下了盛大的酒宴。平时这种场合都是卫律担任接待之职,但这次既然是李陵的朋友来了,他也便被拉出来入了席。任立政看着李陵,但在匈奴一众高官面前,又不能明说叫他回汉朝。他隔着座席望着李陵递眼色,并频频抚摸自己的刀环,暗中传达“还(环)”之意。李陵看到了。对方想要传达的意思,他也大抵猜到了。只是,他不知道该用什么动作来回应。

【日】 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯ばくぎとをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令たいしゃれいが降り万民は太平の仁政じんせいを楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟かくしもう・上官少叔じょうかんしょうしゅくが主上を輔たすけて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律えいりつをもって完全に胡人こじんになり切ったものと見做みなして――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚はばかった。ただ霍光かくこうと上官桀じょうかんけつとの名を挙あげて陵の心を惹ひこうとしたのである。陵は黙もくして答えない。しばらく立政りっせいを熟視してから、己おのが髪を撫なでた。その髪も椎結ついけいとてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更かえるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字あざなを呼んだ。少卿しょうけいよ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟かくしもうと上官少叔じょうかんしょうしゅくからよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴ふうきなどは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武そぶの所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易やすい。だが、また辱はずかしめを見るだけのことではないか? 如何いかん?」言葉半ばにして衛律が座に還かえってきた。二人は口を噤つぐんだ。

【中】 正式的宴会结束后,只留下李陵、卫律等人,以牛酒和博戏继续招待汉使。这时任立政对李陵说:“汉朝如今已下大赦令,万民正沐浴在太平仁政之中。新帝尚且年幼,由你的故友霍子孟(霍光)、上官少叔(上官桀)辅佐主上,掌管天下政事。”立政将卫律视作已彻底归化胡人之流——事实上也的确如此——故而在他面前忌讳明着劝说李陵。只是抛出霍光和上官桀的名字,试图以此打动李陵的心。李陵沉默不答。他定睛看了立政好一会儿,然后抚摸了一下自己的头发。那已是匈奴样式的椎髻,早非中国之风了。过了一会儿,卫律为了更衣而退席。立政这才用毫无隔阂的语调喊出了李陵的字:“少卿,这些年你受了多少苦啊!霍子孟和上官少叔让我向你问好。”李陵以疏远的语气反问二人是否安好,立政打断他,急切地再次说道:“少卿啊,回去吧。富贵什么的且不去说它。求你什么也别说了,回去吧。”刚从苏武那里回来,李陵面对老友的切切呼唤,心绪不可能不起波澜。但是,根本不用去细想,这已经是无可挽回的事情了。“回去容易。可难道只是为了回去再次受辱吗?如何?”话刚说到一半,卫律回到了座席。两人马上闭了嘴。

【日】 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫じょうふふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧おそれたためではない。

【中】 聚会散去分别之时,任立政装作若无其事地靠近李陵,低声再次询问他到底有没有回去的意愿。李陵摇了摇头。他答道:“大丈夫不能两次受辱。”那句话听上去极其缺乏底气,那并非是因为害怕被卫律听见的缘故。

【日】 後五年、昭帝の始元しげん六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死きゅうしすると思われた蘇武そぶが偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑じょうりんえん中で得た雁かりの足に蘇武の帛書はくしょがついていた云々うんぬんというあの有名な話は、もちろん、蘇武そぶの死を主張する単于ぜんうを説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地こちに来た常恵じょうけいという者が漢使に遭あって蘇武の生存を知らせ、この嘘うそをもって武ぶを救出すくいだすように教えたのであった。さっそく北海ほっかいの上に使いが飛び、蘇武は単于の庭ていにつれ出された。李陵りりょうの心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞しもとたるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然しゅくぜんとして懼おそれた。今でも、己おのれの過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰けんしょうされることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々めめしい己の気持が羨望せんぼうではないかと、李陵は極度に惧おそれた。

【中】 五年后,昭帝始元六年的夏天,那个本以为会就这般不为人知地穷死在北方的苏武,偶然竟能回汉朝了。那个所谓的汉朝天子在上林苑中射中大雁、雁足上系有苏武帛书云云的著名故事,自然是为了戳穿一口咬定苏武已死的单于而捏造的谎言。十九年前随苏武一同来到胡地的一名叫常惠的人,暗中见到了汉使,告知了苏武仍然健在的消息,并教使者用这个谎言来救出苏武。使者立刻飞奔北海,苏武被带回了单于的王庭。李陵的心不由得动摇了。无论能否重回汉朝,苏武的伟大不会有丝毫改变,因此,他作为李陵心中的鞭笞也绝不会有丝毫改变;然而,“老天爷果然还是在看着的啊”这个念头,深深地击中了李陵。看似没在看,但老天果然还是在看着的。他肃然生畏。即便到了现在,他也绝不认为自己的过去是错的,但偏偏有苏武这样一个男人,堂堂正正地做到了让本属合情合理的自己的过去也相形见绌的事,而且,他的事迹如今即将受到天下表彰。这个事实,无论如何都让李陵深受震动。李陵极度害怕,自己心中那种如抓心挠肝般婆婆妈妈的感情,莫非就是羡慕嫉妒吗。

【日】 別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡こに降くだったときの己おのれの志が那辺なへんにあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮りくせられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴ぐちになってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣たけなわにして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。

【中】 临别之际,李陵为朋友设宴践行。他有堆积如山的话想说。但这终究绕不开自己当初降胡时的志向究竟何在,以及在壮志未酬之时故国的一族已被杀绝、再也无家可归的这番苦衷。若说出这些,便成了牢骚。因此他对这些事只字未提。只是在酒酣耳热之际,他再也按捺不住,起身一边起舞,一边高歌:

【日】 径万里兮度沙幕ばんりをゆきすぎさばくをわたる

【日】 為君将兮奮匈奴きみのためしょうとなってきょうどにふるう

【日】 路窮絶兮矢刃摧みちきゅうぜつししじんくだけ

【日】 士衆滅兮名已ししゅうほろびなすでにおつ

【日】 老母已死ろうぼすでにしす雖欲報恩将安帰おんにむくいんとほっするもまたいずくにかかえらん

【中】 径万里兮度沙幕,(行过万里度过沙漠)

【中】 为君将兮奋匈奴,(为君作将奋战匈奴)

【中】 路穷绝兮矢刃摧,(行至穷绝矢折刃碎)

【中】 士众灭兮名已隤。(士卒尽没名声已堕)

【中】 老母已死,虽欲报恩将安归!(老母已死,纵欲报恩又能归向何处!)

【日】 歌っているうちに、声が顫ふるえ涙が頬ほおを伝わった。女々めめしいぞと自みずから叱しかりながら、どうしようもなかった。

【中】 唱着唱着,声音不禁发抖,泪水顺着脸颊滑落。他一边在心里暗骂自己不像个男人,却怎么也控制不住。

【日】 蘇武そぶは十九年ぶりで祖国に帰って行った。

【中】 苏武在时隔十九年后,回到了祖国。

【日】 司馬遷しばせんはその後も孜々ししとして書き続けた。

【日】 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活いきていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連ろちゅうれんの舌端ぜったんを借りてはじめて烈々れつれつと火を噴くのである。あるいは伍子胥ごししょとなって己おのが眼を抉えぐらしめ、あるいは藺相如りんしょうじょとなって秦王しんおうを叱しっし、あるいは太子丹たいしたんとなって泣いて荊軻けいかを送った。楚その屈原くつげんの憂憤うっぷんを叙して、そのまさに汨羅べきらに身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦かいさのふを長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己おのれ自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。

【中】 司马迁在那之后依然孜孜不倦地继续书写。

【中】 他已停止在这个世上生存,唯独作为书中的人物活着。在现实生活中再也不曾开启的嘴,唯有借着鲁仲连的舌端,才开始烈火般喷薄而出。他时而化身为伍子胥让人挖出自己的双眼,时而变成蔺相如怒叱秦王,时而又化作太子丹哭着送别荆轲。在叙述楚国屈原的忧愤、长长地引用其即将投汨罗江时所作的《怀沙之赋》时,司马迁无论如何都觉得那篇赋仿佛就是他自己的作品。

【日】 稿を起こしてから十四年、腐刑ふけいの禍わざわいに遭あってから八年。都では巫蠱ふこの獄が起こり戻太子れいたいしの悲劇が行なわれていたころ、父子相伝ふしそうでんのこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史つうしがひととおりでき上がった。これに増補改刪かいさん推敲すいこうを加えているうちにまた数年がたった。史記しき百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝ぶていの崩御ほうぎょに近いころであった。

【中】 起稿至今已十四载,遭遇腐刑之祸已有八年。正值都城爆发巫蛊之祸、上演戾太子悲剧之际,这部父子相传的著作,大体按照最初的构想,通史的轮廓已然成型。在对其进行增补、删改、推敲的过程中,又过去了数年。《史记》一百三十卷、五十二万六千五百字全部完成时,已临近武帝驾崩之时。

【日】 列伝れつでん第七十太史公たいしこう自序の最後の筆を擱おいたとき、司馬遷は几きに凭よったまま惘然ぼうぜんとした。深い溜息ためいきが腹の底から出た。目は庭前の槐樹えんじゅの茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉せみの声に耳をすましているようにみえた。歓よろこびがあるはずなのに気の抜けた漠然ばくぜんとした寂しさ、不安のほうが先に来た。

【中】 当搁下《列传第七十·太史公自序》的最后一笔时,司马迁靠在几案上惘然若失。从腹底长长地呼出了一口深气。双眼虽望向庭前茂密的槐树,但实际上却什么也没有看。他那空洞的双耳,依然像是在倾听着庭院不知何处传来的一只蝉鸣。明明该有喜悦,但那种泄了气的漠然的寂寞与不安,反倒先涌了上来。

【日】 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷ひどい虚脱の状態が来た。憑依ひょういの去った巫者ふしゃのように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄ふけた。武帝の崩御ほうぎょも昭帝の即位もかつてのさきの太史令たいしれい司馬遷しばせんの脱殻ぬけがらにとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。

【中】 将完成的著作上交官府,到父亲墓前报告完毕之前,他的神经依然还绷得紧紧的,但这一切一结束,一种极其严重的虚脱状态便骤然降临。就像是被附体之物离去后的巫者,身心都软绵绵地垮了下去,刚过六十岁的他,突然像老了十岁般老态龙钟。无论是武帝驾崩还是昭帝即位,对于昔日太史令司马迁的这具空壳而言,似乎都已没有任何意义了。

【日】 前に述べた任立政じんりっせいらが胡地こちに李陵りりょうを訪たずねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡なかった。

【中】 当之前提到的任立政等人前往胡地探访李陵并返回都城时,司马迁已不在人世。

【日】 蘇武そぶと別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平げんぺい元年に胡地こちで死んだということのほかは。

【中】 关于与苏武分别之后的李陵,没有留下任何一点准确的记录。除了他在元平元年死于胡地之外。

【日】 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑ころくこ単于ぜんうは死に、その子壺衍こえんてい単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王さけんおう、右谷蠡王うろくりおうの内紛があり、閼氏えんしや衛律えいりつらと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難かたくない。

【中】 早就与他交好的狐鹿姑单于已死,传位给了其子壶衍鞮单于,围绕着新君即位,左贤王与右谷蠡王发生了内乱。李陵为了对抗阏氏及卫律等人,想必也不情愿地被卷入了这场纷争,这是不难想象的。

【日】 漢書かんじょの匈奴伝きょうどでんには、その後、李陵の胡地で儲もうけた子が烏籍都尉うせきといを立てて単于とし、呼韓邪こかんや単于ぜんうに対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝せんていの五鳳ごほう二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。

【中】 《汉书·匈奴传》中记载,那之后,李陵在胡地所生的儿子,拥立乌藉都尉为单于,以此对抗呼韩邪单于,最终失败。这是发生于宣帝五凤二年的事,恰好在李陵死后第十八个年头。史书上只记作“李陵之子”,并未留下名字。



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